九州・沖縄水中考古学協会会報
第3巻・第1号 通巻8号
1993年10月31日発行

唐代の刳船 塩屋 勝利

この秋、中国を旅行した。楊州市博物館を訪問した際、唐代の刳船と積荷が展示してあった。刳船はクス材を用いた単材式のもので、長さ13.65m、幅0.75m、深さ0.65mの巨大な船である。積荷は唐代の陶磁器が殆どであった。運河の底から出土したということで、生産地あるいは中継地から消費地へ商品を輸送する途中に沈んだものらしい。

私はかつて福岡市立歴史資料館で『古代の船』の展示会を企画したこともあり、この唐代の刳船に出会い、大いに感動を覚えた。同時に、いつか協会で古代の船を訪れるツアーを組んだり、実際に水中から沈没船を発見できればと思ったものである。

 

鷹島町神崎地区潜水調査:1993年度調査 林田 憲三

1.はじめに

今回行なった神崎地区の海底調査地点は「鷹島海底遺跡」として1981年7月に「周知の遺跡」として定められた海域内にある(Fig.1)。「周知の遺跡」は鷹島の南海岸の雷岬から干上鼻までの約7.5km、汀線より沖合200mまでの範囲に含まれる約150万km2の海域をさす。この海域ではこれまでに2度の学術調査1.「水中考古学に関する基礎的研究」1980~82(昭和55~57年)、2.「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」1989~91(平成元~2年)が行なわれている。更に長崎県文化課及び鷹島町教育委員会による緊急調査がこれ迄9回行なわれている。その内、4回は発掘を伴う調査で、1.1983(昭和58)7~9月、2.1988(昭和63)9月、3.1989(平成元年)6~8月、4.1992(平成4年)7~9月にかけて床浪港改修工事に伴う護岸建設に先立って行なわれた。

「鷹島海底遺跡」で行なわれた学術調査及び緊急調査では、元寇に関係する沈没船や船体の一部は未だ検出されていないが、しかしこれ迄出土した遺物は多量である。中国陶磁器以外にも鉄刀、船釘、鉄インゴット、銅碗、石弾、石臼、片口乳鉢、磚、碇石、木製品、石製品、鉄製品、人骨及び獣魚骨等がある。これら出土した遺物以外にも、その数は少ないが銅鏡や高麗製品がある。更に縄文土器や近世陶器を含めると、現在までに出土した遺物の総数は2,000点以上に達している。

Fig.1 鷹島

Fig.1 鷹島

鷹島が日本の水中考古学の実践の場所として築き上げた歴史的環境の中で九州・沖縄水中考古学協会は「鷹島海底遺跡」の調査を協会活動の一環として捉え、1989(平成元年)の床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査に初めて参加し、海底遺跡を発掘調査する機会に恵まれた。更に1992(平成4)年度の「鷹島海底遺跡」(床浪港)緊急発掘調査では全面的に鷹島町教育委員会及び長崎県文化課に協力を行なった。この発掘調査の結果、縄文早期の包含層を約-25~-26mで確認した。この深さでの縄文早期の遺物検出は日本で初めてのことであり、日本の水中考古学が専門の学問分野として海底で約1万年前の人間の生活の痕跡を証明したことは非常に意義のあることである。鷹島は地球最後の氷河期の終焉、海水面の上昇、その結果朝鮮半島と日本列島の分離といった地球数万年の時間の流れの中で、人類の足跡を考古学的に解明する貴重な機会・場所を提供した。鷹島は水中考古学にとって元寇関係遺物を埋蔵する海底遺跡であるばかりではなく、縄文遺跡までも海底に包括する「鷹島海底遺跡」である。この認識は鷹島が世界の水中考古学における日本の海底遺跡として将来を担う責務を負わなければならない使命を持つことになる。

この様な状況下で九州・沖縄水中考古学協会は1992年に初めて目視による遺物確認の潜水調査を鷹島町の理解の基で行なうことができた。今年度は第2回目で、鷹島町との間で調査委託契約が結ばれ、昨年度に引き続いて「鷹島町神崎地区潜水調査」を行うことができた。九州・沖縄水中考古学協会の独自の活動として、また協会員相互の研修をも含めて「鷹島海底遺跡」の元冠関係遺物確認調査を1993年7月23日~25日に実施した。

日本の水中考古学の現状は決して好ましい状態とは言いがたい。緊急調査は調査担当者や調査資金の面ではその条件をある程度満たしてくれるが、その反面、調査日程などに制限があり、十分に満足のいく調査ができないこともある。だが大学や研究機関の行なう学術調査ではその状況が逆転することがある。豊富な調査時間に比べて調査資金が際立って少ない。この様な状況の中で九州・沖縄水中考古学協会は日本の水中考古学に係わった緊急調査や学術調査の問題点を検討し、不備を改めて、両者の存在や貢献を評価し、日本の水中考古学の在り方に可能な限り貢献するため、水中活動を鷹島で行なうことができることは、水中考古学への「鷹島海底遺跡」を通じて、鷹島町の取り組みの姿勢を高く評価しなければならない。

2.調査の目的

鷹島は歴史的に元寇の役の舞台となったところとして知られているのは周知の事実であり、重要な史蹟の島である。元寇が歴史的な事件としてこれ迄多くの文献資料、考古資料の検討が行なわれ、史実として日本の歴史のなかに登場する。

この歴史的な事件を水中考古学の学問領域で解明していく為に、この鷹島が重要な手がかりを提供している。鷹島で起きた歴史的重大な事件を鷹島海底で確認することの意義を理解し、これ迄人々の目に触れることの少なかった人間の海への歴史について水中考古学も貢献することができる。鷹島海底は元寇関係遺物ばかりではなく古代環境への諸学問の領域からも意義のある縄文早期の遺物が1992年の床浪港の緊急調査で出土している。

今回行なった調査は「鷹島海底遺跡」(神崎地区)の遺構及び遺物の確認のために目視による確認の潜水調査である。この地区では「管軍総把印」の青銅印が海岸で採集された所であり、大量の中国陶磁器が潮間帯の海岸で、採集することが出来る。この様な理由から九州・沖縄水中考古学協会は、前年度(1992)平成4年6月27日、28日両日に潜水調査を実施した。その結果元寇遺物を海底で確認することができた。また昭和55年から57年迄の3年間にわたり行なわれた「水中考古学に関する基礎的研究」は、この神崎地区の海域もその調査対象区域となり、その時多くの遺物が海底から引き上げられている。これまでの調査区域より更に東側の地区に今回の調査対象区域を設け、遺構及び遺物を海底面で検出することにした。この海域で確認調査を実施することは、今後の精密な海底調査を行なう場合の重要な基礎的資料を提供する。調査対象区域の海底を目視による潜水確認調査で海底環境や遺物・遺構の分布状況を把握する。この調査結果の資料を分析し評価することは、将来この地区で行なわれる本格的な海底調査に多くの資料を提供することになる。

3.調査の組織

今回の調査は九州・沖縄水中考古学協会が鷹島町より依頼を受けて、鷹島町神崎地区地先公有水面の海底を目視により潜水調査を行い、元寇に関係する遺構や遺物を海底で確認し、記録するために実施したものである。調査組織は協会員と職業潜水士(2名)からなる、全15名で構成された。前回に引き続き協会顧問の荒木伸介氏からは調査地点のグリッド設定及び潜水調査方法、更に潜水調査地点に関して多くの貴重な助言をいただき、潜水調査を無事に終了することができた。調査参加者以下の通りである。

1. 荒木 伸介(協会顧問)
2. 林田 憲三(協会会長)
3. 石原  渉(協会副会長)
4. 塩屋 勝利(協会事務局長)
5. 高野 晋司(協会運営委員)
6. 井上 隆彦(協会運営委員)
7. 折尾  学(協会員)
8. 向原 要一(協会員)
9. 村川 逸朗(協会員)
10. 小川 光彦(協会員)
11. 高野 美子(協会員)
12. 松尾 美代子(協会員)
13. 石本 充子(協会員)
14. 山崎 達也(潜水士)
15. 岩垂 博文(潜水士)

4.調査区域

今回、協会の行なう潜水調査地域は長崎県北松浦郡鷹島の南岸7.5kmに及ぶ周知の遺跡として定められた海域にある。所在は鷹島町神崎地区地先公有水面となっている。この調査地では潮の干満の差が比較的大きいため、この地区では潮間帯が広い範囲で出現する。前年度1992年6月に潜水調査を行なった海域は今回の地点から西へ直線にして550m隔たって位置する(Fig.2)。

Fig.2 平成4年度及び5年度調査区域図

Fig.2 平成4年度及び5年度調査区域図

九州・沖縄水中考古学協会による前年度の調査地区と今年度の調査区の間には来年度(1994)予定の緊急発掘調査が行なわれる地域である神崎港がある。ここでは改良工事・防波堤拡張及び荷揚げ場の建設のために海底調査が当然必要となる。

この緊急発掘調査予定地のすぐ東側の海域は1980~82(昭和55~57年)に行なわれた文部省科学研究費による鷹島海域で第1回目の学術調査において選ばれた調査地点の一つである。この学術調査の最終年度にあたった昭和57年(1982)の8月3日(火)~6日(金)にかけて神崎地区海底で潜水調査が実施されたのが、この地点である。この海底調査では元寇関係遺物が東西200m、陸上から沖合200m迄(200×200m)の40,000㎡の海域の海底面で数多く発見されたという報告が8月7日の会議資料として「水中探査発見物リスト」が提出されている。この調査地域は護岸堤から拳大の礫が潮間帯にはぎっしり見られ、更にその沖側に行くに従って、水深は深くなりシルトの海底地質に変わる。

「水中探査発見物リスト」による遺物の分布範囲を調べると、西側半分100mと沖合100mの範囲の海域に遺物の出土が偏していることが読める。

今回、協会の設定した潜水調査区域は遺物の出土した区域の更に約100m東に位置している。このようにこれ迄行なわれた神崎地区海域の調査区域と重ならない区域を潜水調査地点として選定する必要があった。

今回は協会活動としての潜水調査研修をも兼ねているために、会員の潜水技量も十分に把握する必要もあり、水深は15m以下で、陸から沖へ100m以上越えない範囲での海底調査を行なった。

海底の調査区域を正確に設定するため、陸上に測量可能な良好な条件を持つ場所を決定しなければならない。そのために今回は「神崎港海岸計画平面図」を利用することにした。鷹島町教育委員会より1/500図面の提供を受け、この図面を参考にして、以上の緒条件を満たす調査区域を今回決定した。

5.調査の方法

調査区設定(Fig.3)
Fig.3 調査地点全景(西側より

Fig.3 調査地点全景(西側より

(1)潜水調査対象地点は長崎県北松浦郡鷹島町神崎地区であり、その調査対象は10,000㎡である。前年度(1992)潜水調査を行なった対象面積は26,000㎡であった。この面積は2日間の調査予定では対象面積の全海底を潜水調査することは不可能であった。この結果を今年度は考慮して、調査対象面積を約半分の面積にし、調査区域の海底に設定した。調査対象区域の選定の理由は既に(4.調査区域)で述べているので、ここではその説明を省略する。

(2)調査区の設定は陸上の定点からトランシットにより方向を定め、海上に100×100mの調査区を設定する。先ずは基準点A(BM)から西北西へ地点Bを結んだ直線をベースライン(0度)とする。基準点Aと地点B間の距離は100mである。

(3)基準点Aは新しく建設された護岸堤の東側によった位置にあり、久保ノ鼻にある小さな港から西側へ約100m隔たった場所である。その場所には海岸へ下りる階段があり、その階段の最上面に僅かであるが、広く造られた平坦な場所にトランシットをたてることが出来た(Fig.4)。ここに設定した後、海上に向かってベースラインから左90度を設定し、先ずA地点より沖へ向かって潮間帯で海底が露出する地点に10.6mを測る。これは先ず1.陸上の護岸堤と海岸には約3m程の高低差があるため、この誤差を修正することにある。更に2.潜水調査を必要としない陸上部の地域を除くことである。この2点の理由から、潮間帯にあたる海岸に杭を立て、仮地点としてA′を定める(Fig.5)。この地点より水平距離100mを測り(Fig.6)、その地点をDとする。

Fig.4  Fig.5

Fig.4  Fig.5

(4)B地点より海上に向かってベースラインから右90度を設定し、先ずB地点より沖へ10.6mを測り、海岸に杭を打ち、この杭を仮地点B′として、これを定める。このB′地点から沖へ水平面距離100mを測り(Fig.7)、それをC地点とする。

Fig.6  Fig.7

Fig.6  Fig.7

(5)以上のA′、B′、C、D地点で囲んだ面積10,000㎡の範囲が今回の調査対象区域である。

(6)海底に調査区の範囲を設定するために地点C、Dは鋼管を海底シルト層の中に深くに打ち込み固定させ、海面には鋼管よりロープに結んだ橙色のφ200mmのブイを上げる。更に潜水調査区の中グリッド区域(10×100m)に分け、100mライン、90mライン、80mラインと70mラインを100mロープを使って東西方向に海底に設置する。此等の地点を示す橙色のφ200mmのブイを海底より海面に上げ、設置する(Fig.8)。因みに此等のブイは調査終了後改収し、調査海域より撤去した。

(7)更に地点A′とB′間の50m地点、地点C、D間の50m地点を南北方向に“中央縦ライン”を100mロープを用いて海底に設置し、調査区の中グリッド区を更に小グリッド区に細分した。この海底の調査区域及びグリッドの設置等の作業及び潜水調査に調査船の「ひさご丸」を使用した(Fig.9)。

Fig.8  Fig.9

Fig.8  Fig.9

潜水調査方法(Fig.10)
Fig.10 潜水調査区域設定図

Fig.10 潜水調査区域設定図

A′、B′、C、D地点を囲んだ調査対象区域内を考古学者及び潜水士計9名による潜水調査行なう(Fig.11)。

海底の透明度は決して良好ではなく、透明度は3mである。調査区域の海底は概ねシルトが堆積した底質を呈する。しかし陸地の0~沖30mの間の底質は拳大の礫である。また0mから西へ40mの地点では3~4mの高さの岩壁が南北に延びている。このテラスを越えると水深も比較的浅くなり海底はシルトが堆積する。しかし東側より堆積状況は若干異なり、このシルト層は思ったほど厚く堆積していない。調査区の水深は最も深い箇所で17m、逆に浅い箇所は干潮時に海底が現れる。

Fig.11 潜水調査準備風景

Fig.11 潜水調査準備風景

目視による調査区域の潜水調査は各調査担当者が海底に張られた小グリッド(10×50m)のロープに沿ってその両側2~3m幅の範囲で海底を目視しながらゆっくりしたスピードで移動し、潜水調査を行なう。100mロープには10m毎に距離の数字を印したテープを付け、調査員が遺物を確認した場合には、海底で遺物の位置関係を把握したり、記録するのに役立つようにした(Fig.12)。海底で確認された遺物については、海底からの引き上げは原則的に行なわず、遺物の出土状況を記録するために35mm水中カメラ及びビデオカメラによる撮影を行う。更に重要遺物であると、評価したものについてはその位置を計測する作業を行なう。つづいてグリッド内の具体的な目視による潜水調査を時間的な経過を追いながら説明すると、以下のとおりである。
(1)沖側の100mラインのロープに沿ってC、Dの両端地点のブイマーカーからそれぞれ1名の調査員が潜水開始する。中央地点(50m)迄潜水する。更に陸側に設置されている隣の90mラインのロープ迄の幅10×50mグリッドの内側500㎡を自由に潜水しながら遺物確認の目視調査する。
(2)90mラインのロープに沿って東端0m地点と西端100m地点から中央地点(50m)迄をそれぞれ1名の調査員を配置し、潜水調査を行なう。潜水調査は調査員の担当した各グリッド内側500㎡の目視調査を(1)と同じように行なう。
(3)80mラインのロープに沿って両端地点(0m、100m)から各1名の調査員が中央地点(50m)迄潜水調査を行う。更に500m2のグリッド内を目視しながら、遺物確認の潜水を行なう。
(4)70mラインのグリッドでも同様に2名の調査員によって遺物確認の潜水調査を行なう。
(5)以上の遺物確認の目視による潜水調査は陸より沖へ、南北方向に海底に設置された0m、50m及び100mラインのロープに沿っても行なった。

6.調査作業の安全対策

(1)調査中の調査補助及び安全対策として調査船を調査対象区域に常時待機させ、他の船舶に十分注意をし潜水調査を行なうことにする。
(2)警戒船はその船上に、国際信号旗A旗を表す信号(旗)板を示す標識や形象物を掲げ、常に協会員を数名乗船させ、警戒に当らせる。
(3)海上の状況を天気予報等で事前に調べる。

7.調査作業の安全基準

(1)下記事項時には作業を中止する。
   風速12m/秒以上の時
   波高1.5m以上の時
(2)その他、大しけの時には、調査船は鷹島町阿翁浦港を避難港として定め回避し、しけがおさまるまで待機する。

8.調査の成果

鷹島町神崎地区海底に設定した調査地区を目視により潜水調査で対象とした面積は10,000㎡である。そのうち、目視により潜水調査した面積の範囲は沖合70m~100m×lOmの調査区を含む3,500㎡であった。更に調査対象区に設定した区域には干潮時に海底が露出する地域(0~20m)迄もあり、この面積が2,000㎡になる。露出した海岸では調査員が踏査して、元寇関係遺物を表採している。

今回の調査区域で目視による確認調査した面積は調査対象総面積の35%に達した。残りの6,500㎡(65%)は今後更に海底調査を必要とするが、その内、沖合20m迄の海底は潮間帯にあり、干潮時には海底は露出する。この面積は2,000㎡で、調査対象面積20%を占める。しかるに今回の調査区での調査面積は5,500㎡に達する。この調査の結果、目視した調査区域の海底では施釉陶器の壷の胴部破片や鉢等の元寇関係遺物を確認できた。近世陶器では醤油甕やタコ壷等も発見した。

元寇関係遺物は今回潜水調査を行なった調査区内では多量には確認できなかった。しかも殆どの調査グリッドは軟弱なシルトが堆積しているために遺物を海底面で確認することは困難である。しかし元寇関係遺物は700年の間に相当数がシルト層に埋没したため海底面で発見されるのは少数となるのである。この海域で大きなしけが幾度とない限り、決して海底下に埋没した元寇関係遺物は発見されることが困難である。陸地に近い海底では礫あるいは砂混じりの底質であるため、遺物は海底下に沈まず発見される機会が多くなる。そのような海底状況下で発見されたのが、今回の碇石である。発見された地点の海底の状況はシルトではなく砂質層の上面で検出された。重量のある碇石が海底下に沈んでいかなかった理由がここにある。この碇石は調査対象区域の東側にある久保ノ鼻付近の海底の目視の調査を緊急に行なった際、この岬の沖70m付近の水深7~8mの海底で両側から大きな岩の間に挟まれるように碇石(Fig.13)が発見された。長さは約1m未満の比較的扁平な形状をなしている。おそらく半折れの碇石と思われる。この海域は久保ノ鼻の岬が海底に落ちて、沖へ延びていき、岩石が海底の景観を尾根のように形成する要因となっている。遺物はこの様な環境の海底で岩の間に挟まれるようにして発見されることが想定される。この海域の潜水調査は将来実施されるべき課題となるであろう。九州・沖縄水中考古学協会の今後の海底調査は神崎地区海域における今回の調査域よりもさらに東側の久保ノ鼻の岬沖を含む海域で行なう必要があるであろう。

Fig.12  Fig.13

Fig.12  Fig.13

神崎地区海底の元寇関係遺物の確認調査は、協会による前年度(1992)の地区。更にその調査区域のすぐ東側で来年度(1994)に行なわれる予定の神崎港改修工事に伴う緊急調査がある。この調査予定区域の東側海域では第1回学術調査の昭和57年度(1982)における潜水調査が行なわれ、つづいて今回の調査を、この調査区の更に東側の海域で行なった。これ迄の調査区を「鷹島海底遺跡」の周知された海域の範囲の中で、その調査地点を正確に地図上におとすことであり、遺物の分布状況を把握することである。

この様に、一連の神崎地区における海底調査の成果を評価し、今後行なわれる総合的な海底調査の基本資料となるための分布調査はこれからも鷹島海域で行なう必要があるであろう。

9.まとめ 調査の現状と今後の課題

協会による今回の海底調査の目的の一つは目視による潜水調査を行ない、海底に遺構及び遺物の存在を認確するために考古学者が自ら潜水調査を行うことにある。更に協会による会員の研修を奨め、海底調査に必要な技術や知識を習得する機会を設けることを、その目的としている。この様な協会活動は日本の水中考古学の現状を考えると、重要なことである。

水中考古学の調査方法のひとつとして、海底の遺構及び遺物を目視によって確認する潜水調査は莫大な調査費を必要としない。この方法は遺構及び遺物を海底で確認する作業としては最も確実で、その為の準備期間も多くを必要としない。しかも少ない調査費で実施できることがその特徴である。遺物及び遺構の発見はこの方法が最も確立が高い。1960年代より地中海で盛んになった水中考古学に於いても、その発達は科学探査による遺構及び遺物の発見よりも、地元の潜水士、漁師やアマチュア・ダイバーによる偶然の発見のほうが多く、その結果重要な海底遺跡や遺構及び遺物、更に沈船が数多く調査されている。

この目視による潜水調査は海底の地質の違いが、その成果に大きく左右する。底質が砂質や礫質であれば、シルトなどの軟弱質な底質とは異なり比較的安定して、遺構や遺物は海底面に残るものである。しかし日本の海底の環境は殆ど後者の底質を呈するものと考えられる。この底質では海底に沈んだ遺物がその上層部では安定せず、時間の経過と共に徐々に下の層へ沈んでいく場合と、堆積層が海流によって移動し、二次的な堆積が遺物を覆いながら進行する場合もある。これら遺物を海底面で発見できない原因となる。遺物が海底下に自ら沈んでいく、その動きを起こす要因は物理的に何であるかを考えなければならない。潮の干満が海流を生じさせ、更に強風や台風などが波浪をつくり海底に潮の強い流れの動きを生じ、これが要因となって遺物は海底を動き回ることもある。その結果、遺物の集中した箇所が海底に出現する。この場所は遺物ばかりでなく、海流に交じる浮遊物や塵なども一緒に集中し、沈澱する時には、遺物はその中に混じり込むと考えられる。また陸上からの土砂や生活廃棄物の海への流れ込みは遺物ばかりではなく、海底の地形状況を変え、海水の透明度をも下げる。環境破壊の一つに海の汚染があり、人々の意識には遺物と環境が直接係わるなどは全く想像することはできない。

今回は調査対象面積(10,000㎡)の35%(3,500㎡)しか目視により海底調査ができなかった。今回の潜水調査を行なった面積の数値が意味するのは、先ず水中の透明度や透視度の善し悪しが必然的に海底調査に影響を与えていることである。このような条件のもとで潜水による確認調査を行なうと考古学者のストレスは増加し、その結果目視能力に重大な影響を与える。しかも水中考古学の方法論に厳格に対処することを意識すれば、曖昧な潜水調査を否定しなければならない。例えば、グリッドの各地点の設定を海底でより正確に行ない、そのグリッド・ロープを確実に海底地形状況を考慮しながら、目視による潜水調査に最大の効果をあげるために各地点間を適切に張る必要がある。ここには潜水調査を始める前の作業量の多さが当初協会が見積もったよりも調査日数・時間の不足が実際の調査面積を減少させる。このことも今回の調査面積の現れなかった数値に含まなければならない。そして今後同様の潜水調査を行なう場合には、調査日数には十分配慮しなければならない。

今回は調査区域の海底で元寇関係遺物を確認することができた。更に潜水調査をした区域では海底下に埋没した遺構や遺物の存在を調査しなければならない。この調査区の東半分の区域の海底にはシルトがかなりの厚さで堆積しているため、元寇関係の遺構や遺物が海底下に埋没している可能性がある。それは「元軍」の船体の一部であることもある。調査をしなかった残りの65%(6,500㎡)に関しては今後更に海底調査を必要とするが、その内には沖合20m迄の海底が岩質の地域が含まれている。この地域の面積は2000㎡になる。この岩底質の地域は今後調査対象区域から除外することができる。

沖合30~100mの海底には堆積したシルト層をエアーリフトによる発掘調査を行なうべき対象区域7,000㎡が今後海底下に埋没している可能性のある元遠道物や更に時代が下る遺物あるいは遺構の確認をしなければならない調査区域となる。そのためには事前に科学的なデータの集積が必要となるであろう。例えばサブボトム・プロファイラーやボーリング、或いは試掘トレンチを数箇所に設定しエアーリフトを用いて発掘するなどである。これらの予備調査のデータから本調査への資料を作成し、その資料を十分に検討したのち本調査候補地を設定する。

今回、この調査区域における目視による元寇遺物の確認調査は今後本調査に向けての複数の問題を提起することになった。

九州・沖縄水中考古学協会はこの地区での本格的な発掘調査への可能性をおおいに期待したい。

 

1993年度神崎地区潜水調査:出土遺物  石原 渉

採遺物についての考察

今回調査区の陸上部からは、表採資料3点を採取した。遺物はいずれも破損品でありいくぶん磨滅が目立つ。したがって、ある程度の期間にローリングを受けているが、ほぼ原形をとどめており、器形の確認は容易である。(参考資料1)

参考資料1 表採陶器破片

参考資料1 表採陶器破片

遺物は共に褐釉壷であり、特に暗褐釉色の四耳壷の破片で、茸笠を呈する口緑部破片と、肉厚な黒褐釉爪形壷の側底部破片、及び胴部破片の3点である。四耳壷の耳部分は欠損しているが、同遺物にも見られる特徴的な茸笠形の口緑部分は四耳壷特有のものである。(参考資料2)

参考資料2

参考資料2

さて、この種の遺物は、鷹島沿岸からの採集遺物として、かなり引き揚げられており、その大きさも数種類に大別されるが、本遺物はいずれも比較的中程度の褐釉壷の破片であろう。

類似品は中世の博多遺跡群からも、かなり出土例が知られており、流通時期は宋代から元代にいたる貿易陶磁の日用雑貨である。

以上の観点から類推すると、今回の表採資料はおそらく元寇関連遺物と考えて差し支えないであろう。

海底の石材について

久保ノ鼻の沖合、水深7~8mの海底で発見された石材は、今回の調査では引き揚げておらず、今だ、海底に存在する。石材が発見された海底は久保ノ鼻から延びる岩棚が切れ込んだ所で、しかもテラス状の岩棚の陰の部分にあたる。石材自体は四角柱で表面には牡蛎殻が付着し、正確な法量は確認しえない。

水中で観察すると、先端部に沿ってやや先細りぎみに幅が薄くなっているように見える。しかし正確なところは引き揚げ以後の実測作業で明らかにするしかないであろう。

さて類似の遺物は、鷹島沿岸からいわる「碇石」として引き揚げられた遺物が数点存在する。いずれも四角柱で、断面は長方形。先端に沿って先細る傾向をしめす。

さて、これが碇石とすれば、実際は欠損した部分も同様の形態を持つ左右対称の-本の石柱の残片であり、両端部分は中央部に比べてやや先細りぎみ、逆に中央部は肉薄で、2本の木製鉤爪を左右2本づつの鍵で上下に留めて装着する仕様のものであったろう。(参考資料3)

参考資料3 碇石復元図

参考資料3 碇石復元図

したがって、碇石ならば欠損した片方の部分も付近の海底に存在するはずである。これに反し、鉤爪をもつ木製部分は、おそらく朽ち果てたのであろう。「碇石」は博多湾や小値賀島、壱岐などでも出土例があるが、いずれも石材部分のみの出土であり、木部の発見は無い。また鷹島出土の碇石の特筆すべき特徴は、そのいずれも完形品ではなく、中央部から折れた状態で、しかも片方のみの出土ということである。他地域のものが、木部を除く完形品であるのに対して、これは異様な感じを受ける。古来より大型船は大きさが異なる数種類の碇を数本装備して係留していたようで、引き揚げが困難な場合は、碇の綱を切断して放置することも、多々あったようだ。

したがって、海底下に碇石が残存することは何ら不思議ではない。ただ「碇石」が中央部から割れた状態で出土するということは、何らかの外的要因が働き、海底下の碇石自体に、かなり強烈な負荷が加わって折れたとしか考えられない。特に岩礁が存在する海底に沈められた碇石は、岩礁が障害物となってかなり海底下で破損する確立が高いであろう。

さて、その外的要因であるが、碇自体は海底下に安定しているわけであるから、問題は碇によって係留された舟自体に負荷が加わって、その影響が係留綱を伝わり碇に反映したとしか考えられない。

例えば、海上にある舟が波浪の影響で激しく翻弄され、その圧力が舟を安定係留しようと働く碇部分へと伝わり、舟に引きずられる形で動こうとすれば、碇はおのずから海底の地勢と摩擦を起こし、ひいては破壊してしまうに違いない。

したがって碇石破壊の原因が、強烈な波浪が巻き起こしたのだとすれば、鷹島で想起できる原因はただ一つ、弘安四年に鷹島南沿岸を襲った大暴風雨だけであろう。するとこの碇石もあるいは元寇舟の碇であったのだろうか。

ただ碇石は中国だけのものでなく、世界各国に姿形を変えて存在するし、我が国にもその存在が記録されている。したがって事実関係を正確に知るためには、いずれこの遺物を引き揚げて、石質や形態を十分確認した上で判断する必要があろう。