D.アフリカ地域

モーリシャス(Mauritius)号海底遺跡

この遺跡はアフリカ西海岸方ボン共和国のケープ岬沖、1.8kmにあるロイレットの瀬(Loiret Bank)でマレーシアからの帰路の途中、1609年に沈んだオランダ東インド会社(VOC)の船である。深さ10~12mの海底に、高さ3~4m、長さ50m、幅23mの高まりとして1985年に検出され、中央部が膨らんだ円形あるいは楕円形を呈する亜鉛のインゴット、中国陶磁器(神宗帝の時期に比定できる明染付)、大砲28門が引き揚げられている。

オースターランド(Oustor land)号海底遺跡

この遺跡はテーブル湾で発見されたオランダ東インド会社(VOC)所有の船で、1697年に沈んだ。1988年の調査では1685年の年号が入った青銅製の大砲、中国陶磁器、香料等が出土している。

ボードゥース(Boudouso)海底遺跡

この遺跡はセイシェル諸島のアミランテ島のボードゥースの入江で1970年に地元漁師によって偶然に発見された沈船である。76年になると本格的な調査が始まった。船の所属、年代はいまだ特定できていない。遺跡は海岸より100m沖に50mにわたって、幅5~10mの水路を形成した状況にある。船体の一部、タイ陶磁器、6本の錨、青銅製の大砲、鉄を鉛で覆った砲弾が検出された。

サントアントニオデタナ(Santo Antonio de Tanna)号海底遺跡

この遺跡は1697年にケニヤのモンバサの港で沈んだポルトガルの軍艦で発掘調査は1976~80年に行われた。

E.オセアニア地域

この大陸地域での水中遺跡はほとんど海底に限られている。これまでに発掘調査が行われた遺跡は17世紀前半以降の沈没船の調査で西オーストラリア地域に集中している。オーストラリアの西欧諸国による交易活動はイギリス、オランダ、ポルトガルのいわゆる“東インド会社”の所有する船を使った交易がその活動の中心であった。これらの船はヨーロッパを出航してアフリカの南端の喜望峰をまわり、東に南緯30゚付近の貿易風に乗るとアムステルダム島の中間地点を通過し、西オーストラリアに到達する。さらに進路を北にとると西南アジア諸国に行く。そこには香料を中心とした交易品がある。この歴史的な経緯の中で、西オーストラリア沿岸海域は珊瑚礁や浅瀬が発達しているためここに17世紀前半から沈没船の記録が存在するのである。この海域で沈没した船はイギリス船(1隻)、オランダ船(4隻、バタビア号(1962)、ヴェルグルドドレーク号(1656)、ズートドルプ号(1713)、ジーウイク号(1727))がある。これらの水中遺跡に対してオーストラリア政府は1976年に連邦政府による沈没船史蹟法(Historic Shipwrecks Act)を適用し、保護措置を講じている。その遺跡の調査・保護は全て西オーストラリア博物館が行うことになっている。この法には①水中遺跡の指定を受けた地域から引き揚げられた遺物は全て国家に属する。②また新しい水中遺跡を発見したものには報告の義務と、それに対しての報償金を与える。ということが明記されている。1791年にグレートバリアリーフで沈没したパンドラ(Pandora)号の発見者には10,000AUドルが支払われている。また西オーストラリアのポイント・クローテス(Point Cloates)の沈没船の発見では17,500AUドルが支払われた。海底文化財に対する個人の関心・理解は「報償金」という形で還元され、この事がさらにオーストラリア社会全般の啓蒙活動を支えている。
ニュージーランドの状況は以下のごとくである。1975年にニュージーランド議会は1954年に提案・提出された歴史史蹟法(Historic Places Act)を通過させ、沈没船に対してもこの法律が適用されることになった。1980年には若干修正が行われ今日に至っている。1983年にこの法にもとづく裁判が初めて行われ、2人のダイバーが沈没船から遺物を引き揚げ、その行為により起訴されたが、結果は有罪とはならなかった。この歴史史蹟法に対する裁判所の出方がこれから注目される。ニュージーランドではいわゆる沈没船ではエンデバー(Endevor)号がこの法の指定を受けている。798年にヨーロッパから最初の移住入植者がこの地に入って以来、1839年までに270件の沈没事故が起こり、さらに1860~79年までに690件の沈没事故が発生している。これらの沈没船をこれからどのように確認、評価し、さらに発掘調査を行ってどのような保存措置をとるのか、今後に多くの課題を抱えている。

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トライアル(Tryal)号海底遺跡(図1)

この遺跡は西北オーストラリアのスンダ(Sunda)海峡のモンテベロー(Monte Bello)諸島の最北端にあるトライアルロック(Traial Rocks)の海底で出土した沈没船の遺構である。この船はイギリス東インド会社(EEIC)所有のトライアル号で1622年にこの地で座礁し沈没した。1969年アマチュアダイバーにより大砲、錨等が発見され、1971年には遺構確認のための調査が行われている。85年には本格的な発掘調査が西オーストラリア海洋博物館によって行われた。トライアルロックは複数の岩礁からなり、潮が引くと岩が海面に現れる珊瑚礁の浅い地域である。潮の流れが速く潜水作業は困難な条件下にある。この遺構は海底の砂が厚く堆積している近くにある珊瑚礁の上で検出された。遺構にともなう鉄製大砲は17世紀初期に比定でさる大砲で、イギリスによって使用されたことが大砲の基部に印刻された数字(25-0-?)から確認された。

ラピッド(Rapid)号海底遺跡(図2)

この遺跡は西オーストラリア、エクマウス(Exmouth)の南に位置するポイントクローテスの珊瑚礁の浅い海域で1978年に地元の漁師によって発見された。西オーストラリア博物館によって沈没船が遺存していることがわかった。船体は珊瑚礁が途切れた水路の入り口付近の水深6mの海底で検出された。船体は左舷を下にして横たわり、上部構造は火災を受けて消失している。バラストは10×25mの範囲で検出した。この遺構にともなう遺物として3門の小型砲、3本の錨、鉄製のストーブ、錨巻き上げ機等が出土した。またスペイン1ドル銀貨(1759-1809鋳造)が19,000枚、アメリカ1ドル銀貨数枚、1セント銅貨6枚、イタリア銀貨、中国銅銭、ポルトガル貨幣、鐘が船体の船尾地点から出土している。アメリカの東アジア、中国貿易に関する資料にラピッド号がボストンを活動の中心にしてアジアとの交易を行い、1811年にこの海域で座礁沈没する記録があり、この遺構からの出土遺物からこの船と断定でさる。調査は1978年に始まり79年、80年に船体の前半分が調査された。

パンドラ(Pandora)号海底遺跡(図3)

この遺跡はトーレス(Torres)海峡の珊瑚礁の浅瀬に座礁して沈没したイギリスの軍艦のパンドラ号の遺構である。タヒチ島でのイギリス海軍のバウンティー号の反乱により、これら反乱者の捜索、逮捕の命を受け、パンドラ号は1790年に母国イギリスを出航し、タヒチ島で反乱者のうち14人を揃えて、英国本土に帰還途中、1791年8月にこの地点で沈没した。1977年に海底に遺物が散乱しているのが発見されたために、1976年に西オーストラリア地域だけを対象にしていた歴史的沈没船法(Historic Shipwreks Act)をこの東北部地域にも適用し、1979年にこの遺跡の発掘調査が始まった。この遺跡をどのように評価すべきかが検討され、その結果、調査は1980年以降続けられた。遺物は40×10mの範囲で海底にあることが確認された。

シリウス(Sirjus)号海底遺跡(図4)

この遺跡はシドニー湾内のノフォーク島沖に1790年に沈んだシリウス号(HMS Sirius1780~81建造)で1983~88年にかけて調査されている。

トーポ(Taupo)号海底遺跡(図5)

この遺跡はニュージーランドのプレンティ(Planty)湾のメイヤー(Mayor)島付近で沈没したスクリュー推進の初期の蒸汽船である。1879年にトーポ号がタウランガ(Tauranga)港に入港する際に浅瀬に座礁した。その後1881年に離礁させ、オークランド市へ回航する途中、船は浸水し始め、メイヤー島付近で再び沈没した。1982年になりこの沈没船の遺物の盗掘が起きて問題になった。それ以来保護を受けることになる。

ザントー(Xantho)号海底遺跡(図6)

この遺跡はフリーマントル(Fremantle)とポートグレゴリー(Port Gregory)との途中で1872年に沈没したオーストラリアの初期鋼装の蒸汽船で、スクリューで推進する船である。この沈没船は1848年にイギリスで建造され、その当時は外輪船であった。しかし1871年に改造され、スクリューを装備した。沈没船の船体は港から約100m沖、水深5mの砂質の海底に残存している。この遺構の発掘調査は1983年に西オーストラリア博物館によって始まり、84年、85年と続き、引き続き発掘が行われている。それと平行して、引き揚げ作業が行われ、遺物の保存処理にも十分に注意が払われている。