C.地中海地域

地中海は「考古学」が新しい専門領域の学問として「水中考古学」を進めて行くうえで、重要な役割を果たしたといえる。海を取り巻く環境はこの新しい学問に極めて積極的に援護した。その環境とは、(1)水中活動を飛躍的に容易にした水中機器の目覚ましい開発が、フランスのジャック・イブ・クストーを中心にして進められたこと。(2)この地域の水没した遺跡を考古学的方法で解明しようとする様々な学問分野の研究者に恵まれていたということ。(3)西洋文明の揺籃の地であること。このような状況でみていくと、地中海に面している国々の学問としての水中考古学の興味は歴史的あるいは経済的な背景や遺跡自体のあり方を考慮に入れるとその対応にも隔たりがあると言える。ギリシアでは1976年に水中古代局(Department of Underwater Antiquities)が発足して70年代後半以降水中遺跡とくに海底の調査にその関心を示してきた。ギリシアには過去の経緯から海底より引き揚げられた古典時代・ヘレニズム時代の彫像の出土例が少なからずある。ここでは地中海地域を東西2地域に便宜上分けて述べることにする。(1)ギリシア・トルコ及び東地中海地域、(2)イタリア・フランス及び西地中海地域、とする。

C-1.ギリシア・トルコ及び東地中海地域

ギリシア・トルコ及び東地中海地域の水中遺跡

ヤシアダ(Yassi Ada)海底遺跡Ⅰ(図1)

この遺跡はボドラムのある半島の最西端とギリシア領プセリモス島(Pserimos)間の海峡に集まっている小島群にある。付近の海底遺跡から、かなりの数の沈没船が見つかっていることからもこの地域が船の航海にとって決して安全に通過できる環境になかったと考えることができる。この遺跡にも①と②の沈没船の遺構があるように複合遺跡である。
①4世紀ローマ/ビザンチン沈没船、②7世紀ビザンチン沈没船は地中海北東地域に起源をもつ全長20mの商船で、625年頃コス島の北、小アジア西海岸の沖の浅瀬で遭難したのである。船体は引き揚げられ、部材のPEG処理が終わり、船体の復元作業がボドラムの博物館(Bodrum Museum of Underwater Archaeology)で続けられている。出土したアンフォラはこれまで考えられていたこととは異なり再利用されていたことが確認された。

ヤシアダ(Yass Ada)海底遺跡Ⅱ(図2)

この遺跡は複合遺跡で、39~42mの深さにある。16世紀のオスマントルコ帝国の沈没船の船首がより古いもう一隻の沈没船の船尾に乗り上げ、一部が重なり合った状況で遺構が検出された。この遺跡は1967年に偶然に発見され、第一次発掘調査は82年からはINAによって行われ、この年は船体の左舷側の実測と引き揚げ、83年は右舷側の調査を行っている。2×2mのグリッドを用いた実測、ステレオ写真撮影が海底の遺構、遺物の記録作業を正確かつ迅速に行うために採用された。船体の規模は21~23m、幅約7mである。この遺構から出土した1枚の銀貨はスペインのフイリップ2世の統治していた1566~89年に鋳造されたものであった。

セルスリーマニ(Serce Limani)海底遺跡群(図3)

1.この遺跡はロードス島の北西に面したトルコ南西部のエーゲ海に突き出た半島の南側に位置している。この遺跡から出土した多量の遺物はイスラム系ガラスである。出土遺物のなかにはファティマ朝の度量貨幣として用いられたガラス製の錘ディスクにより11世紀初期(1024/25あるいは1021/22)の年代が与えられている。この遺跡はいわゆる“ガラス沈没船”(Grass Wreck)と呼ばれる商船の遺構で、1973年にINAの地中海地域の海底遺跡分布調査によって発見され、1977年から33mの深さでの調査が始まり、79年まで発掘調査は続いた。その後引き揚げられた船体はボドルム博物館に搬入され、そこでPEGによる保存処理が行われた後、復元作業が行われた。復元作業も1987年には終了した。この遺構より出土した100万個のガラス破片が整理され、その内500個体は接合復元され、それらの器形も200以上に達した。
2.この遺跡は“ガラス沈没船”の近くで1973年に35mの海底で確認された。ヘレニズム時代(紀元前3世紀)の沈没船の積載品のアンフォラ等が出土している。1978年から本格的な調査が行われ、81年には終了している。
3.この遺跡はセルスリーマニ海底遺跡から約35km離れた沖合70mの海底25~36mで1984年に発見された。10~11世紀に比定できる沈没船(部材の一部)とその積載品(ガラス製品)、その他の遺物が確認されている。

青銅器時代(Bronze Age)海底遺跡(図4)

トルコ南部小都市カシュ(Kash)沖のウルブルン(Ulu Burun)の入江の海底45~51mで検出された後期青銅器時代(紀元前14世紀)の船体の一部とその積載品をともなった遺跡である。1982年に地元のスポンジをとるダイバーによって発見されていた遺物で、遺跡確認のサンプルとして銅インゴット(“oxhide”ingot)1点を引さ揚げた。83年からINAによって本格的な調査が始まった。84年は遺跡の25%が調査され、船の竜骨や船の部材を検出した。遺物としては銅インゴット、カナン系のアンフォラ、土器、金、銀、琥珀、ファイアンス製装飾品、象牙材料、青銅製武器や道具類、円柱形をしたガラスのインゴット等が検出された。85年、86年の発掘調査は42~53mの遺跡の深い地域での遺物の検出、87年は遺跡の最西端に近い斜面になった調査区や中央部での発掘調査であった。前者の区域からは銅インゴット、船のバラスト、鉛の錘、壷、後者の区域からは銅インゴット、碇石、ガラスのインゴット、土器類が出土した。88年は遺跡全体の遺物配置図の作成をした。

ゲリドニア(Gelidonya)海底遺跡(図5)

この遺跡はゲリドニア岬で発見された。沈没船の遺構とその船にともなう積載品である。1960年にジョージ・バスらによって発掘調査された。1988年の調査は、60年の発掘調査で未解決になっていた問題(遺構を潰している状態にあった大きい岩が船の沈没する以前から存在したかどうか)の解明を目的とし、また遺跡全体を再度精査することにあった。小型の金属探知器を使用して若干の遺物を引き揚げている。

キレニヤ(Kyronia)海底遺跡(図6)

この遺跡はキプロス島北西海岸のキレニヤ沖で発見された船体の遺構である。紀元前4世紀に比定できる遺構である。沈船は引き揚げられ、復元された。この復元船を元にレプリカ船「キレニヤⅡ号」が作られている。

イスカンデリバーヌ(Iskandil Burnu)海底遺跡群(図7)

1.この遺跡は1973年にトルコの南西のダトチャ(Datca)半島の先端に近い海底25~35mにアンフォラが堆積したマウンドが発見された。砂質の海底には沈船の船体が死存する可能性をもたせた。1982~84年の3回にわたる写真撮影、遺物の実測の結果引き揚げた。出土した遺物には少量のアンフォラがある。これらのアンフォラはクニドスで造られていて、把手のスタンプでそれが確認された。その他に鍋、水注、皿が出土し、これらは東地中海パレスチナ地方の土器と比較できるもので、6世紀の後期に比定できる。
2.この遺跡は1973年にトルコ南西のダトチャ(Datca)半島先端より少し北側にまわりこんだ入江の海底3~15mで発見され、1982年に再調査があり年代決定のため、アンフォラが数個体引き揚げられた。遺構は潮流のため残存状態は良くない。1987年の調査では海底37mの地点で残存状態の良好なアンフォラを発見し引き揚げている。

クニドス(Knidos)海底遺跡(図8)

この遺跡はダトチャ(Datca)半島の先端の町クニドス沖32mの海底で1984年発見された。アンフォラが十数個体引き揚げられ、形式から判断するとビザンチン後期時代に属するものと考えられる。

ボドラム(Bodrum)海底遺跡群(図9)

この遺跡は半島の北側の海岸沖35mの海底で1984年にコス島製造のアンフォラの破片が引き揚げられている。前1世紀のローマ時代の小型船の遺構の可能性がある。

マルマラ(Marmara)海底遺跡(図10)

1.この遺跡はトルコの西北部にあるマルマラ海の海底6~8mで1984年に発見された。引き揚げられた遺物にはビザンチン時代の屋根瓦、うわ薬が施された土器などがある。その他に沈船の可能性もある遺跡である。この他マルマラ海域では6カ所の海底遺跡で遺物の発見がある。
2.この遺跡もマルマラ海の海底14~17m、沖合約30mで1984年に前4世紀半頃のキオス島製造やビザンチン時代の土器と共にアンフォラが比較的多量に出土した。沈没船の可能性のあった遺跡であったが、遺構の破壊が著しく、沈没船の確認は不可能。

ダトチャ(Datca)海底遺跡(図11)

この遺跡はダトチャ半島南岸と南にあるシミ(Simi)島に挟まれた海域にある。遺跡自体1973年に発見され、1987年に再確認調査が行われた。海底約50mの深さでアンフオラが確認された。沈没船の遺存状態は海底が軟らかいシルト層であるため非常に良好であると予想される。アンフォラの年代は7~8世紀に属すると考えられる。

ゴコバ(Gokova)海底遺跡(図12)

この遺跡は1973年に発見され、1987年に再調査が行われた。ボドラムから沿岸沿いに東へ約20kmの海底10~15mにロードス島生産のアンフォラの破片が出土した。この遺物の年代は前3~2世紀に比定できる。沈没船の船体が残存する可能性がある。

セリホス(Sorifos)海底遺跡(図13)

この遺跡は1985年にキクラデス諸島のセリホス島南東にあるレヴァデイ湾の海底12mでアンフォラが発見された。出土した遺物からヘレニズム時代(前250~225年)に比定できる。さらに海底25~32mに他のアンフォラの堆積した地点が確認できた。この遺跡では沈没船は今のところ確認されていない。

アギオスイオアニテオロゴス(Agios Ioannis Theologos)海底遺跡(図14)

この遺跡は1985年にギリシア本島フィティオテス(Phthiotis)のアトランテ(Atalante)湾に臨む場所にアギオスイオアニテオロゴス漁村で沖約750mの海底20mで発見された。アンフォラが約50個程、鉄製(Y字形)の錨2本と共に検出された。この錨はセルスリーマニ海底遺跡より出土した錨と比較でき、年代も11~12世紀に属するものである。

カマラキ(Kamaraki)港湾都市海底遺跡(図15)

この遺跡はアッテカ北東地方のオロボス(Oropou)の東5kmにあり湾を隔ててエウボイア島があり、古代はデルフィニオン(Delphinion)といわれたところである。遺跡は港の建造物である。1988年に調査が行われた。ヘレニズム時代の遺跡で紀元前2世紀頃と考えられる。

カボヴォデイ(Kavo Vodi)海底遺跡(図16)

この遺跡は1988年ロードス(Rhodes)島の北端の町ロードスから約10m南岸のヴォデイ岬の北側沖420mの海底23~27mでアンフォラが発見された。その内2点が引き揚げられ前5世紀中頃キオス(Chius)島で作られたことがわかった。沈没船の可能性は少ない。

タッソス(Thasos)港湾都市海底遺跡(図17)

この遺跡はマケドニア地方のアトス半島の北東約60kmのクッソス島にある港内遺跡である。古代港の遺構で、水深1.5~3mの海底にあり、古典期の港はその規模からしてアルカイク期の港より小さい。1984年に発掘調査が始まり、85年、87年と引き続きフランス考古学研究所との合同調査が行われた。

ピサゴリオン(Pithagorion)港湾都市海底遺跡(図18)

この遺跡はサモス(Samos)島の南東に位置している。ピサゴリオン港内の古代防波堤の遺構である。1988年に今ある防波堤を補修改築するために発掘調査が始まる。古代防波堤の構築物遺構は長さ480mである。遺構の上部は海面下2.75~4.43m、底部は海面下14mである。遺構上面からはアンフォラ等の土器が多数出土している。

アマソス(Amathus)港湾都市海底遺跡(図19)

この遺跡はキプロス島の南岸リマソール市の東10kmに位置し、水深1~6mの海底に石組遺構があり、海岸線を方形に港を取り囲む様に配置され、防波堤の役割を果たしている。1984年から発掘調査が始まり、85年、86年と続いた。この右組遺構には南西側の隅に20mにわたって石組遺構が存在しない箇所があり、この地点は港の入口となる所である。西側の石組は長さ130m、南側は180m、東側は145mを測る。右組の組み方には特徴があり面取りをした石灰岩のブロック(3×0.7×0.7m、重量3t以上、縦の両側面には釣り上げるための突起が削りだされている)が海底の深さにより3~7段に積み上げられている。

ドーコス(Dhokos)海底遺跡(図20)

この遺跡はペロポネソス半島東端と沖のハイドラ(Idhra)島の間に挟まれたドーコス島の海底にある。この遺跡は1975年に32mの海底に土器片が広い範囲に散乱していることが確認されていた。89年に本格的な調査が行われたが、沈没船の船体などは確認されていない。遺物の種類や出土状況から判断すると、船体が遺存する可能性がある。遺物の実測にはステレオ写真撮影を行い、音波位置測定器(Sonic High Accuracy Ranging Positioning System〔SHARPS〕)による実測を採用した。出土した遺物の編年にはEHI-Ⅲが与えられている。

カステロリソン(Castollorizon)港湾都市海底遺跡(図21)

この遺跡はトルコのリシア(Lycia)の海岸から15km沖にあるカステロリソン島の北側に良好な入江を持つ港町マンドラキに残存する波止場の壁や道路の遺構である。この港町は古くはメギステイ(Megisti)と呼ばれた。近くにはセルスリーマニ(Serce Limani)沈船海底遺跡があり、1982年に海底に遺構のあることが確認された。この遺跡は地球の地殻変動の影響を受けた事例として評価される。潮の干満の差はほとんどなく25cm以下である。マンドラキの入江の浅い海底では土器片・建物・道路の遺構が出土した。

ファラサルナ(phalasarna)港湾都市遺跡(図22)

この遺跡はクレタ島最西北端のコウトリ岬(Koutri)にあるリバデイ(Livadi)湾の沿岸に古典・ヘレニズム時代、B.C.約350頃に建設された港湾都市ファラサルナである。紀元後365年に地震が起き、港町の大半が土砂に埋もれた。今では海岸から100mも離れた、海抜6.6mの内陸部にある。この遺跡は1986年に発掘調査が行われた。この港湾都市は古代からしばしば記録に載り、旅行・地理学者のストラボ(strabo、10章一4:2)も記述している都市である。港は方形状に造られ、水深は少なくとも1.85mはあった。
参考資料、AJA92(1988)436-79;Hesperia59(1990)513-27

カエサリア(Caesarea)港湾都市・海底遺跡(図23)

この遺跡は東地中海、レバント海域の海岸に臨んだローマ時代の都市である。港遺構としては水没した防波堤及び沈没船がある。
1.この遺跡はローマ時代ヘロデ王がパレスチナを統治(紀元前22~10)した頃のカエサリア港湾遺構。1980~85年に発掘調査が行われた。
2.この遺跡はカエサリア港内で沈没したローマの商船で、海底3.5m水深に沈む。1976年に確認された遺構である。1983年に発掘調査が始まり、86年、87年、88年と発掘調査は行われた。外洋に剥出しになったこの港の地理的環境は常に海底の砂が遺構を覆うことで、調査のない間に遺構は埋まってしまう。船体は全長45m以上あり、船の部材の規模は大きく、厚さも9cm程もある。竜骨やマストを固定した部材はまだ確認されていない。部材には松の材質を使い、鉛の薄板で巻き止める方法が使われ、この技法は所謂ギリシア・ローマ式の造りである。遺物としては86年に排水ポンプ、ロープ、サイコロ等が出土した。

タントラ(Tantura)海底遺跡(図24)

この遺跡はハイファ(Haifa)から南へ20km、地中海沿岸に面したタントラとそのすぐ北側約3kmにあるテルドール(Tel Dol)の港町のほぼ中間地点にある浅い入江(Tantura Lagoon)の海底で発見された。この遺跡は1961-64年にかけて鉄砲、砲弾、大砲が引き揚げられこの地に船あるいはそれに関する遺物の存在が認められたがこれまで沈没船遺構は検出されていない。その後1976年に調査が行われた。81年には全長1.6mの青銅製の大砲が他の遺物と共に出土した。大砲の表面にはトルコの三日月と星、スルタンの画(tugra)が見られ、さらにスペインのチャールズⅣ世のⅣが鋳造されていた。大砲は18世紀後半~19世紀初頭に位置づけられる。

アトライト(Atlit)海底遺跡Ⅰ(図25)

この遺跡は海底で検出した農耕集落跡である。1983年に始まったイスラエルの考古学研究所海事研究センター(Center for Maritime Studies,Institute of Archaeology)とハイファ大学海事学(Maritime Studies,Haifa University)の合同調査が地中海沿岸のカーメル(Carmel)海岸地域で行われ、複数の海底遺跡が確認され、アトライト遺跡もその一つである。この地域はパレスチナの初期農耕文化を知る上で重要な所であり、青銅器時代からの集落の発掘調査が行われてきた。このような地理的・歴史的環境のもとで、海底遺跡分布調査及び発掘調査が行われた。この結果、この地域の海底から港湾都市、沈没船、その積載品等が出土している。

ハイファの南方約13kmにアトライトヤム(Atlit-Yam)村があり、1984年にこの村の海岸から沖へ約400m、水深9~12mの海底で紀元前8000年頃の新石器時代の住居跡群が確認され、アトライトの初期農耕社会を形成した村落がパレスチナのこの地域に存在したことが分かった。確認された海底遺跡の範囲の一部(100×300m)が発掘された。その結果、当時の海岸汀線が集落の西側300m先にあったことも判明した。この地域は当時より13.5mほど海面が上昇している。高度に発達した建物群が検出され、村の中で重要な建物には内庭があり、床を小石などで舗装している部屋も検出された。食料としたエンマ小麦、農耕具の鋤、鍬、斧、鎌、轢き臼、臼等が出土した。動物の骨には羊、ガゼル、鹿、豚、牛がある。この遺跡が新石器時代の村の様子を知る上で良好な資料を提供している。この遺跡を含む多くの海底遺跡がこの沿岸には存在している。アトライトの北にはメガディム(Megadim)、テレヘライツ(Tel Hreiz)、カファーガリム(Kfar Galim)、カファー北ガリム(Kfar Galim North)、カファーサミール(Kfar Samir)等が連なってある。

アトライト(Atlit)海底遺跡Ⅱ(図26)

この遺跡から出土した遺物は1980年にアトライト沖の海底で出土した古代軍船の船首に装着するバッタリングラム(Battering Ram)である。ラムは相手の船のオールを破壊し、さらに船に衝突させ沈没させるためのもので、船首の喫水付近に装備する。古代ではギリシア、ローマ、フェニキアの軍船に採用されていた。このラムは青銅製で、船体のキールの先端部材が一部が残存して、原位置を保ち検出された。鋳造されたこのラムは長さ2.26m、幅0.83m、厚さ2cm、重量600㎏である。ラムの両側面にはレリーフが見られ、鋳りのある把手を持つ3本刃の短剣、7本のスポークをもった鉾、植物の冠をあしらったヘルメットがあり、後の二つの文様は「ゼウスの子供達」の意味を持つものである。さらに上部のすみにはワシの頭部をあしらっている。ラムは古代において貨幣、壁、土器、船型品、石碑、モザイク画にしばしば描かれている。年代の決めてになる共伴遺物がないため、このラムの年代決定は困難であるが、紀元前4世紀半~終末期に遺物年代を位置づけている。C14による年代測定では400±130年B.C.という年代値が与えられている。

ニューヤム(Newe-Yam)海底遺跡(図27)

この遺跡からは石製の碇がニューヤムの沖の地中海の海底で多量に出土した。1984年から本格的な調査が始まる。船体の遺構は確認されていない。碇は中期青銅器時代(前16世紀)に比定できる。

マーガンミイカエル(Ma'agan Michaol)海底遺跡(図28)

この遺跡はイスラエル、入植地キプツのマーガンミカエル沖70mの海底で出土した紀元前約400年の船の遺構である。船体は船首を北東の方に向け横たわり、右舷船首近くに木製の錨が1989年に検出された。遺構の発掘調査は1988年に始まり89年に終了した。船体は全長13mで、右舷側の部材が良好に残存する。この船はフェニキアの商船であると考えられている。

テルナミ(Tel Nami)海底遺跡(図29)

この遺跡はテルナミの北の地中海の海底で中期~後期青銅器時代に属する遺構である。キプロスとの関係のある資料も出土している。また石製の碇も数多く出土した。この青銅器時代の遺構の下0.7mで中期新石器時代の集落の建物の壁が波の作用によって出現して、確認された。1987~88年発掘調査が行われている。

アルアシュケロン(Ar Ashkelon)海底遺跡(図30)

この遺跡はガザ(Gaza)の北約20kmの地中海沿岸にあるアルアシュケロンの海岸より沖約100mの海底で1988年に検出された。この遺跡からは大規模な建物の部材が出土した。これらと共に石製の碇やローマ時代に属する鉄製の碇が出土している。

ホファーカーメル(Hofha-Carmel)海底遺跡(図31)

この遺跡はハイファの南約1.5kmに位置し、地中海に面しているホファーカーメルの沖で発見された遺物である。1982年の海底調査で、この海底に調査区域(20×20m)を設定し、その小地区(6×6m)範囲を試掘調査の結果、銅インゴットが石製の碇4基をともなって検出された。インゴットは後期青銅器時代に属する。沈没船の遺構は確認されていないが、この地中海に沿った地域は自然の港となるような地形ではなく、人工的な港がないこの地域では船は嵐を避けることが困難であった。このような自然環境が海上交通の盛んであったパレスチナ沿岸に数多くの沈没船の遺構を海底に残しているといえる。

キネレット(Kinneret)湖底遺跡(図32)

この遺跡は1986年、ガリラヤ(Galilee-Kinneret)湖の西北岸のキブツ(Kibbutz)の町ギノサール(Ginosar)で発見された全長8mのポートの遺構である。86年は湖の水面が例年になく下がり、湖岸の堆積した土の中から遺構が出土した。この近くの遺跡から出土している船のモザイク画は紀元前後に比定されている。モザイクの絵にはマストが中央部近くに大きく張りだし、さらに船首が反った船が描かれている。

パトリオット(Le Patriote)号海底遺跡(図33)

この遺跡はアレキサンドリア港の沖の浅瀬に乗り上げ座礁した沈没船である。ナポレオン軍のエジプト遠征時に商船として使用され、1798年にこの地で失われた。エジプトとフランスの合同調査が1986年に行われ、黒紫檀、青銅製品、ガラスビン、大砲等が引さ揚げられた。

マレア(Marea)港湾都市遺跡(図34)

この遺跡はエジプト、アレキサンドリアの南に広がるマリュート(Maryut)湖の西へ約45kmの湖の沿岸に開けた港町である。ナイル川の流入水量の低下で湖の水位が下がり乾燥化が著しく、この都市も今では乾いた湖の湖底に存在する。この状況は水中遺跡とは言えないが、今後の気候環境に変化があれば再び水をたたえ、この遺跡は湖底に戻ることも想像可能である。マレア遺跡は1978年から調査が始まり、1980年、81年はビザンチン時代に比定できる船のドライドックの遺構が検出された。
以下の海底遺跡はトルコ沿岸海域でINAが水中遺跡分布調査を行い、遺跡確認したものである。正確な発見場所は報告されていない。
前4世紀末海底遺跡
この遺跡からは遺物のほか沈没船の部材の一部が1984年に確認される。
前4世紀後半~3世紀初期海底遺跡
この遺跡では沈没船の部材が1984年に確認、わずかな遺物も出土する。
10~11世紀海底遺跡
この遺跡は1984年に発見され遺物のみ確認する。
11~12世紀海底遺跡
この遺跡は1984年に発見され遺物のみ確認する。
17~18世紀海底遺跡Ⅰ・Ⅱ
1.この遺跡は1984年に発見された。オスマントルコ帝国の軍船で10~25mの海底で確認された。遺物には錨、大砲、帆の操備品がある。
2.この遺跡は1984年に発見された。オスマントルコ帝国の軍船で20mの海底で確認された。遺物には大砲、帆の操備品、その他生活必需品が出土している。

C-2.イタリア・フランス及び西地中海地域

iイタリア・フランス及び西地中海地域の水中遺跡

スラブロッシー(Slave Rossii)号海底遺跡(図1)

この遺跡は1780年に南フランスのイルドレバン(Ile du Levant)島の付近で島の切り立った海岸に衝突し、水深約38mの海底に沈没したロシアの軍船である。1957年に地元のダイバーによって発見され、さらにフランス海軍のダイバーが10門の大砲を引き揚げた。1980年には、フランス水中考古学研究所から許可を受けたフランス海軍、マックス・グエロ(Max Guerout)等によって1981年までの2年に渡って発掘調査が行われた。船体は海底に沈む途中で、大きく破損し、残存状態は良くなく、約35×5mの船体約1/2が残っている。遺物は沈没時の状況を反映して、2カ所に大きく別れて出土した。深い地点からは船尾部分(居住部屋)にあった個人所有の刀、皮ベルト、ピストル、ライフル、陶器、食器、ビン、グラス、80点の銅、青銅、真鍮製のイコンが検出された。浅い地点からは大砲、砲弾等が検出された。

ボンツァ(ponza)海底遺跡群(図2)

この遺跡はナポリから西へ約110kmの沖に位置する小さな島である。この島のまわりの数カ所の海底から遺物が1984年に引き揚げられている。しかし沈没船と思われる遺構はこれまで出土していない。この島は古くから海上交通の要地である。本格的な調査は行われていない。
1.1世紀に属するローマのアンフォラがフリシオ(Frisio)港の海底で出土している。
2.3世紀のアンフォラがボンツア湾の入り口にあるマリア(Maria)の東数km沖の小島ラビア(Ravia)の水深10~15mの海底で出土している。
3.2世紀後半のアンフォラ、台所用品、レン方、瓦等がマリア(Maria)の東数km沖のラビア(Ravia)島の海底で出土している。
4.マドンナ(Madonna)岬の沖の水深15~30m海底で土器類が多量に出土している。

サンタリベラタ(Santa Liberata)港湾都市海底遺跡(図3)

この遺跡はローマから北へ約125kmのアルゲンタリオ(Argentario)島の北側、タラモネ湾に面した海岸に位置している。港の防波堤、漁業施設等の遺構が海面下に認められ、ローマ時代のアンフォラも海底で出土している。またこれらの遺構から約20m沖の海底では前2世紀後期~3世紀のローマのアンフォラが出土している。

ポッツェーノ(Possino)海底遺跡(図4)

この遺跡はポピエロニア(Populonia)の北、バラッテイ(Baratti)湾の海底で出土した沈没船の遺構である。1989年の発掘調査でローマ船(前2世紀後半頃)が検出された。船体は全長15~18mである。船体の部材を鉛のベルトで接合するという、これまでに例のない技術を採用している。船内に入った水を排出する装置も備えている。この船の積載品も多量に出土している。積載遺物のアンフォラはドレツセル(Dressel)1A型式のカンパニアで製造されたものである。ロードス製のアンフォラも供伴している。

プレミリオ(Plemmirio)B海底遺跡(図5)

この遺跡はシシリー(Sicily)島シラキュース(Siracusa)市の近くの水深22~47mの海底で1953年に発見されたローマの沈没船(A.D.200)の遺構である。この遺構は1974年、83年にイギリスのブリストル大学による調査があり、85年、87年にはケンブリッジ大学による発掘調査が行われた。出土した遺物には鉄製品、北アフリカ製のアンフォラ、青銅器(道具)、陶製のランプ等が出土している。

パナレア(Panarea)海底遺跡(図6)

この遺跡はアエオリア(Eolie)諸島の東に位置し、シシリー島のメシナ市の北西約60kmにあるパナレア島の水深36~39mの海底にある。この島は幾つかの小さな岩礁島から成り立ち、海面にわずかにしか頭を出さない瀬もある海域である。沈船の遺構はこれまでは確認されていない。発掘調査は1985年から始まり、86年、87年と続いている。出土した遺物はアンフォラ、スキフォス、把手付きのカップ、碗、小型碗、水注、ランプ、等の土器があり、さらに鉛の碇のストックも発見された。出土遺物は前4世紀に位置づけられる。

ジーリオ(Gig1io)海底遺跡(図7)

この遺跡はトスカナ地方のオルベテロの約30km東のティレニア海にあるジグリオ島カンプセス(Campses)湾の水深45~50mの海底で1961年に発見された沈没船の遺構である。調査は1982~86年にかけて行われた。遺構は前600年頃のエトルスクの船と考えられている。この遺構に伴う遺物にはエトルリアのアンフォラ、銅や鉛のインゴットがある。

プンタデルフェナイオ(Punta del Fenaio)海底遺跡(図8)

この遺跡はジグリオ島のカンペセス湾の北側の水深60~75mの海底にある。所謂tubi fittliといわれる筒状土製品(これを連続的に組み合わせて建物の天井部のアーチを作る)が多量に1984年に発見された。沈没船の船体の確認はされていない。この遺跡はかなりの盗掘の被害を受けていることも判明している。この遺跡からは北アフリカ起源の3~4世紀の時期に属するアンフォラも出土している。これらも盗掘者による引き揚げである。

コルテラッソ(Coltellasso)海底遺跡

この遺跡はサルデニア島の海底で1980年に遺物が発見され、1982~84年にかけて発掘調査が行われた。

ジアルディニナクソス(Giardini Naxos)海底遺跡(図10)

この遺跡はシシリー島タオルミナ(Taormina)の南ジアルディニ湾の北側、タオルミナ岬の南約500m沖の水深24mのなだらかな斜面の海底で、1985年に(Echo-sounder,side scan sonar,sub-bottom profiler)探査機を用いての調査で検出された。海底にシルト層に覆われた高さ0.6mのマウンドが探査機で揃えられ、そのマウンドの中から大理石製の建設材が出土した。発掘調査は1986年に始まり、まず遺構の状況を把握するために遺構全体の検出を行う。遺構は13基ブロックと24基の円柱が重なるように平行して東西に向けて横たわり、沈没船の存在を示すものとして、遺構が比較的原位置を17×5~6mの範囲で保っていることから、船体の船底部分がこれら建材の下に遺存することが推定される。出土遺物には青銅製あるいは銅製角釘(丸い頭部をもつ)、青銅製の飾り、錠、石臼、アンフォラ等がある。遺構からの石材は約90tの重量が推定される。石材産地はブロックはギリシアのエウボイア島南端にあるオーチャ(Ocha)山の麓のチポッリノ(Cipollino)に比定され前2~1世紀には盛んにここから切り出され、ローマ世界では広く利用された。円柱の産地は比定されていないが、ギリシアのエウボイア島かアッティカ地方の産と想定されている。

エクイールペルドゥート(Ecueil Porduto)海底遺跡(図11)

この遺跡はコルシカ島の南端の東側、ボニファシオ海峡に位置するペルドゥート岩礁の北西の海底で発見された沈没船の遺構である。遺構は海底の15×4mの範囲で検出された。船体の残存状態は盗掘もあり良好でないが、3mの長さの竜骨を含む船の身材が検出され、この船の遺構にともなう遺物はアンフォラ、碇石、木片が出土している。船体の構造はスペイン地方の船と比較される。アンフォラには底部近くにスタンプが印されている。それらスタンプはスペイン起源のものである。遺構は前1世紀~紀元後1世紀に位置づけられる。

マルサラ(Marsala)海底遺跡(図12)

この遺跡はシシリー島の西端にあった古代港湾都市リリベウーム(Lilybaeum)の港の海底から出土した。発掘調査は1982~84年まで行われ、建築材として用いられた筒状土製品(tubi fittili)がアンフォラ等の土器と共に出土した。遺物の年代は前4世紀後期あるいは前3世紀初期のビザンチン時代に比定できる。これら建築材に使用された筒状土製品は平均の長さが約15cmである。

ヴァドルグーレ(Vado Ligure)海底遺跡(図13)

この遺跡はリグレシア海に面したヴァドルグーレ港の海底で出土した中世~現代の遺構である。この遺構は海底の浚渫が1975-85年まで行われ、その浚渫にともなう海底からの遺物が引き揚げられた。地形の変化により水没した遺構が存在していると判断できる。

エルセック(El Sec)海底遺跡

この遺跡はスペインのマジョルカ(Majorca)島海底で出土した前4世紀の遺物である。遺跡の発掘調査は1987年に行われている。

バラモス(Palams)海底遺跡

この遺跡はスペインのゲロナ(Gerona)の沖の海底で発見された沈没船の遺構である。この遺構は1958年に初めて発見され、確認調査が行われた。1981年になり、この遺構の発掘調査が再開された。遺構にともなう遺物ではアンフォラがある。これには「L.VOLTEIL」のスタンプが押捺されている。円形土製品はアンフォラの破片を再利用した栓である。この遺構の年代はこれらの遺物から前1世紀に位置づけられる。