日本における水中遺跡調査の歩み(4)

(8)海底の遺物散布地の調査

昭和60年、日本の最南端沖縄県と最北端の北海道で、海底の遺物散布地の調査が実施された。

シタダル遺跡

沖縄県石垣市の名蔵湾にある通称シタダル遺跡は、中国明代の陶磁器が浜に打ち寄せられる場所として知られ、米国のジョージ・H・ケアー博士の琉球文化財調査(1961年~1964年)などの分布調査をへて有力な海底遺跡として知られていた。日本水中考古学会の茂在寅夫は、朝日新聞の後援をえてこの遺跡を調査し、青磁や白磁の皿類など291点を引き揚げた。

上ノ国港内

北海道檜山郡上ノ国町では、漁港改修工事に伴って、漁港内に散布する陶磁器類に対する事前調査が実施された。

上ノ国海底遺跡より出土した遺物

荒木伸介の指導のもと、2ケ月に及ぶ調査で、肥前系の近世陶磁器類を中心とした3, 000点におよぶ遺物が出土した。調査は、港内の透明度不良の悪条件下にもかかわらず、遺物散布地全体をグリッド区画し、エアーリフトによる排土作業を行い、遺物出土地点の記録作成を重視するなど、地上の発掘調査同様の成果がえられた。

沖縄と北海道のいずれの調査においても遺構は検出されず、遺跡は遺物散布地と結論されたが、上ノ国の調査報告書は、遺跡形成の理由として、1.船上投棄遺物、2.番屋生活廃棄遺物、3.市街生活廃棄遺物の可能性を提起し、最も高い可能性として、16世紀末葉以来、当該地区に集落を形成した住民の生活廃棄物の集積と推論している。

(9)沈島伝説とその調査

別府市瓜生島

風光明媚な温泉地として知られる九州最大の観光地大分県別府市は、その眼前に国東半島と佐賀関半島に囲まれた別府湾が広がる。この湾内には現在島影を見ないが、伝承によれば東西3.9km、南北2.3kmにおよぶ「瓜生島」(別名を建部島あるいは沖の浜島)が存在したといい、慶長元年(1596年)閏7月12日午後2時過ぎ、出国高知沖の海底を震源とする大地震(伏見大地震)によって、住民もろとも海没したと伝えている。

瓜生島は、室町時代頃から豊後最大の貿易港として隆盛を極め、12ケ村数千戸を有し、島の中心部分には三条の大通りが走っていたと伝える。豊後府内藩の藩士であった戸倉貞別が元禄12年に著した郷土誌『豊府聞書』にもその名を見ることができる。

昭和41年、この伝承の島を求めて潜水艇による調査が、昭和52年には「瓜生島調査会」の二度にわたる海底調査が実施され、遺物や島の存在こそ発見できなかったものの、海底下地層の音響測深調査の結果、沖合750mから2kmにおよぶ扇形の地滑りを観測し、別府湾を走る活断層とほぼ平行することを確認した。今後、幻の島の探索が現実のものとなる可能性も高い。

益田市鴨島

島根県益田市中須町の益田川河口にも、海没した伝承の島「鴨島」がある。万寿3年(1026年)の大地震で海没したといわれる「鴨島」は、梅原猛が柿本人麻呂終焉の地(鴨島に流刑されその地に没したとする仮説)として話題になった。昭和52年、「鴨島遺跡学術調査団」が結成され、田辺昭三らを迎えて組織的な調査が実施された。水中ビデオや遺物浮揚機などを投入、島跡とおぼしき岩盤の広がりや、柿本神社の遺構らしきものも発見したが、確たる物証をえるには至らなかった。同海域には益田川から流入した浮泥やシルトの堆積も多く、調査は困難を極めたようである。今後の調査の再開と具体的な遺物や遺構の発見が期待される。

(10)海外調査への協力

海外からの協力要請に答え、技術支援をも含めた学術的文化交流の一環として、これまでに外国の水中遺跡の調査研究への協力がいくつかなされている。

クルナの水没文化財引き揚げ

昭和46年10月から翌年の1月末日まで行われたティグリス河とユーフラテス河の合流点、クルナにおける水没文化財引き揚げ調査もその一つである。

1955年5月、フランス探検隊がメソポタミアで入手した発掘の成果品40ケースと、英国アッシリア発掘財団がプロシア政府から受けた寄付への見返り品として、当時のベルリン博物館に贈る予定のニルムドやクュンジクから出土した遺物80ケースを満載した1隻の船と4隻の筏(羊の革袋を組んだもの)が、ティグリス河とユーフラテス河の合流点、クルナの北方3マイルの地点で、アラブ人の襲撃を受け、これらの貴重な文化遺産の多くを船もろとも失ってしまった。これが世に名高い「クルナの災難」の全容である。失われた出土品には人面牛身像や有翼神像など貴重な遺物が含まれていた。

昭和46年6月、日本・イラク両国で文化財引き揚げ調査に関する正式な協力協定が結ばれる。調査は日本オリエント学会とイラク考古総局、中日新聞社の三者合同で行うことになり、江上波夫を調査団長に、3部門総勢34名の調査団が結成された。探査や揚陸、考古・美術・補修・保存・言語などに関する学識経験者が選抜され、水中考古学分野では小江慶雄が参加した。

調査は10月1日に開始され、水没地点と思われるナイフ・ベグを中心に、ソノストレイター(磁歪振動式音波探査機)を備えた船で河底の調査を行い、河底の地層中に異常なエコーがある16箇所を検知し、補助地点8箇所を加えて、その箇所への潜水、ドレッジによる掘削等の確認作業を行った。残念ながら水没文化財の発見には至らなかったが、水中遺跡(水没文化財)調査への技術協力として初の海外遠征であり、それが果たした役割と意義は高く評価される。

シリア沖古代遺跡

昭和58年4月、NHK取材班が、番組取材中にシリアのタルトス沖海底から1個のアンフォラを引き揚げ、沈船を発見した。地元の海綿採り漁師の情報によるものである。

シリア沖沈船の出土遺物

昭和60年7月、江上波夫を委員長とする「シリア沖古代遺跡発掘運営委員会」が組織され、3次にわたる海底発掘調査が、日本、シリア政府、シリア考古総局の共同で行われた。沈船遺跡のある水深32mの海底は、石灰質砂泥の堆積した平坦な場所で、しかも地中海特有の透明度を誇り、海藻類や魚介類も少ないことから、沈船自体もかなり保存状態が良好であった。

この発掘調査には田辺昭三が調査指導にあたり、コミュニケーションシステム、長時間潜水(バウンスダイビング)、水中写真測量に画期的な最新技術が導入された。コミュニケーションシステムとは、水中で調査に携わる調査員を3台の水中テレビで撮影し、船上でこれをモニター監視して、水中スピーカーで調査員へ指示を与える方法である。バウンスダイビングは、深い水深で作業を行ったダイバーに対する減圧対策法で、通常は順次浮上する際に一定の水深に溜まって減圧を行うのに対し、船上に設けた再圧室で減圧する方法である。これにより海底での長時間作業が可能となったが、素早く浄上して5分以内に再圧室へ入らなければならず、今後の深々度潜水作業には魅力的な方法ではあるが、国内の現行法規下では実施が難しい。

水中写真測量では、まず水中カメラを海底より6mの位置に固定して、遺物の集積範囲を俯瞰で14枚撮影する。その写真を3倍に拡大したものをスキャナーで読み取ってデジタル化し、さらにそれをコンピューターにかけてモザイク画面を作り、解析図化機で標高データを割り出し、最終的な実測図を作り上げていく。細部の測量には4mの位置から撮った82枚の写真を同様の方法で図化して用いている。こういった最先端の技術力をもって、海底からアンフォラ850個を引き揚げた。海底の沈船にはまだ大量のアンフォラが残っており、船体の保存状態も良好と伝えられるので、調査の継続とその成果が期待される。