九州・沖縄水中考古学協会会報
第1巻・第2号
1991年4月30日発行

沈船発見に期待  荒木 伸介

南北に細長く連なるこの島国は、古代から今日に至るまで、西側の大陸からさまぎまな影響を受けてきた。多くの人々が、そして多くの文物が両者の間に横たわる大海を渡って交流を重ね、歴史を刻んできた。当然のことながら、その活躍を支えてきた主役は船である。船は、建造された時代の先端科学技術の産物であり、生活文化を凝縮して積み込み、活動していた。しかし、残念ながら船体はもちろん舟材の断片すら現存しないのである。不幸にして沈没した歴史的船舶の数は、大陸に近い九州、沖縄の港湾とその周辺に多いと推定される。ここを舞台に活動を進める当会の責任は重大である。フランスの水中考古学協会は、オランダ、イギリスに残る保険の記録から、長崎港外に数舶の沈船を認め、調査に着手したいとのことである。実施時には、当会も全面的に協力したいものである。

 

博多湾の水中考古学  塩屋 勝利

博多湾の水中考古学的背景

福岡市の前面に展開する博多湾は、西側を糸島半島に限られ、東側は奈多、雁ノ巣、海の中道へと続く海岸砂丘の先端を占める志賀島に限られた海域である。志賀島の弘と糸島半島の唐泊の直線距離は約5km、唐泊から湾の東奥部和白まで約20km、志賀島南端から姪浜までの南北直線距離は約8kmで、東西に長い湾形をなしている。湾頭には周囲4kmの玄界島があり、糸島半島先端の西浦崎から約2.5km、志賀島北端から約4.8kmの位置にある。博多湾の東を限る志賀島は、海の中道海岸砂丘先端の陸繋島状の島で、南北約4km、東西約2km、周囲約8kmである。湾内には南北3.1km、束西1.3km、面積3.9km2の能古島があり、姪浜との直線距離はわずか1.3kmである。

博多湾に流入する主な河川は、西側から瑞梅寺川、室見川、那珂川、御笠川、多々良川などがあり、各々の水系が小平野を形成しており、博多湾を出口とした海上交通と、各々の平野内部を結ぶ交通手段の役割を果たしたことが考えられる。博多湾西部の今津湾に流入する瑞梅寺川水系は糸島平野東部を開析し、『魏志』倭人伝に記される「伊都国」の東側への交通路として利用されたことが推察される。早良平野を貫流する室見川水系は、中国の歴史書に国名は見られないものの、近年の吉武遺跡群発掘調査などの成果から「早良国」の形成・発展の交通路としての役割を果たしたことが考えられる。福岡平野を形成する那珂川・御笠川水系は、稲作農耕の開始以来、常にこの地域を歴史の舞台に立たせてきた主要な河川であった。博多湾東部に流入し、粕屋平野を形成る多々良川水系も、流域に弥生時代から歴史時代に至る対外交渉を示す遺跡・遺物が見つかっており、博多湾への交通路として利用されたと考えられる。博多湾内には、これらの河川や丘陵に分断されながら、およそ20kmにわたる海岸砂丘が形成されている。1274(文永11)年の元軍の来襲後、湾岸の砂丘上に石築地が築かれ、元の再来襲に備えたことは有名である。博多湾周辺では、平野内陸部のみならず、これらの砂丘上にも各時代の遺跡が発見されている。最も西側の位置を占める今津大原では、弥生時代前期の長浜貝塚が知られ、瑞梅寺川河口に内面する今津貝塚も弥生時代前期の貝塚として古くから知られている。今山遺跡の下から長垂海岸に至る今宿松原の砂丘には、弥生時代前期の集落址、甕棺墓、古墳時代からの古代の遺跡が連続する。さらに姪浜の砂丘上には弥生時代の埋葬遺跡の新町遺跡がある。室見川右岸から続く藤崎から西新町の砂丘上には、弥生時代前期から古墳時代に至る集落址、墳墓が数多く発見されている。福岡平野の出入口をなす博多部の砂丘上にも、弥生時代中期の甕棺墓を始めとして、前方後円墳なども見つかっている。御笠川右岸から多々良川に至る千代松原、箱崎松原と呼ばれる砂丘上にも、古墳時代から中世に至る遺跡の調査例が増えつつある。さらに博多湾東部の海岸砂丘である唐原においても弥生時代後期の生産遺跡、古墳などが発掘されている。また、博多湾外ではあるが、湾の東を限る海の中道遺跡からは、『万葉集』にも詠まれた志賀の海人の生産活動と、太宰府や鴻臚館との関係示す遺構・遺物が数多く発掘されている。

博多湾の水中考古学

このように、対外交渉の門戸として博多湾を位置づけ、稲作開始以降の平野部の歴史的発展を考える場合、最初に目に付くのが湾内に流入する河川であり、次に目に付くのが砂丘上の遺跡である。河川は海と陸地を結ぶ交通手段として想定され、砂丘上の遺跡は海に依拠して平野部の人々と交易した人々の存在を想定させるからである。そして問題となるのが交通手段としての船であろう。けれども現在まで、博多湾周辺での船の発掘例は少なく、弥生時代後期に属すると考えられる今宿五郎江遺跡の船材、5世紀始めとされる吉武樋渡遺跡の準構造船形木製品、博多遺跡群(網場町)の16世紀代に護岸用に転用された和船材が発掘されているにすぎない。

そこで目を博多湾内に向けて、船および船で運ばれた遺物の出土例を見てみよう。博多湾内における船の引き揚げ例は無く、最も古い遺物としては、博多湾西部の唐泊海底から採集された広形鋼矛1本がある。対馬に埋納例が多いもので、採集地点は現在の壱岐・対馬航路に当り航海途上で投棄されたものであろうか?古墳時代の遺物は知られておらず、中国唐代の遺物として海獣葡萄鏡1面がある。博多湾東部の西戸崎沖から引き揚げられたもので、海の中道遺跡と鴻臚館を結ぶ位置に当り興味深い。能古島東方の海底からは、中国製の銀製水注が引き揚げられており、宋代のものであろう。このほかには、博多遺跡群を始め内陸部の遺跡から多量に発掘される宋・元代の貿易陶磁器が引き揚げられている。博多湾前面からは、張綱銘天目茶碗、龍泉窯青磁碗、皿、褐釉壷などが引き揚げられ、西部の西浦海底からは白磁碗、玄界島海底から龍泉窯青磁碗が採集されている。なお船の附属品としての碇石は、博多港正面や唐泊沖の海底から引き揚げられているが、これらを全て元寇の際のものとするかどうか検討の余地がある。

今後の課題

以上、博多湾周辺の平野部と海浜部の考古学的状況と、これまで引き揚げられた海底遺物の概要を述べたが、ここで強調したいのは、博多湾は水中考古学の宝庫というべきフィールドであるということである。

1984年8月4日から5日の2日間、林田憲三氏と池崎譲二氏と筆者の3名は、初めて玄界島海底の潜水調査を行った。龍泉窯青磁碗などが海士漁によって採集されていたこともあり、中世の貿易船がみつかるのではと期待したが沈船は発見できなかった。しかしながら、廻船の積載であった多量の唐津焼きの分布状況を観察できたことは収穫であり、さらに大机、小机と呼ばれる瀬の海域水深10mライン内に沈船が埋もれている可能性も生じたのである。

その後、志賀島の金印公園下の海底調査を行ったが、海は汚れ視界ゼロの状態であった。湾岸の埋め立てにより、ますます博多湾は汚染されてゆくだろう。このような時、水中考古学の宝庫である博多湾の本格的調査は、九州・沖縄水中考古学協会の若い力に課せられている。

 

海に生きる -船大工頭梁にきく-  松田 又一

質問: 昨年百道にオープンした福岡市博物舘に松田さんが寄贈された船関係の品も展示されていますね。そのなかで私が興味をもったものに船霊というのがあるんですが、これは本来どういったものでしょうか?

松田 又一。大正9年11月25日生まれ。16歳で父に弟子入りする。昭和60年、福岡市技能功労者に選ばれ現在に至る。福岡市西区西ノ浦在住。

松田 又一。大正9年11月25日生まれ。16歳で父に弟子入りする。昭和60年、福岡市技能功労者に選ばれ現在に至る。福岡市西区西ノ浦在住。

松田: これは結局、船の信仰とかになるとでしょうが、船でお神酒飲む時なんか、これに一番に酒をかけます。船の中心の船梁にほぞ穴を彫り込んで、そこに入れ込むわけ。ほいで中に入っとるのは、サイコロが2つ。これは柳の木で作ったもので、3の目をΛ形になるように隣合わせにして、裏が4になりますね。そして3が船首のはうを向くごと置くと、4が艦(船尾)を向くわけですたい。それを表見合わせ(3合わせ)、共幸せ(艫4合わせ)でゆうて、要するにごろ合わせですたい。それから船主が用意するとに米八合、塩八合、酒八合、それに掛けの魚(鯛)一対、それと五穀、籾、麦、大豆、小豆、アワ・‥それと口紅と化粧道具。

質問:女性の口紅?これはどうゆうわけですか。

船霊様、「海に生きる」図版14

船霊様、「海に生きる」図版14

松田:船はもともと女性の神様やからね。それから櫛とハサミ、これは大きいとは入らんから銅板で小さいのを作ります。え-と、それに毎月の分のお金、昔は一文銭だったでしょうが、潤月の年は13文しよった。今は5円玉とかを入れますね。このくらいのもんやったかね。

質問:松田さんの場合は大隅伝流の作法ですね。その他の船大工さんも同じですか。

松田:そいで所によってはね。船梁の上を木槌でことんといわすところもあるし。奈多(福岡市東区)のほうはね、編みものの針と女性の髪、これは所によって違いますよ。

質問:船は外国でも、女性名詞で表わすと聞いたことがありますが、どうしてでしようか。

松田:まあ色々わけはあるんでしょうけど、西ノ浦でも、船の神様が嫉妬するゆうて、漁に行く時はしょうがないけど、大体は女性は乗せんですね。それで全部箱に入れて、酒八合は欧みきらんでも船から下ろしたら駄目。取り舵、左舷から持って入って、船の上で、御身、魂を入れて、頭梁が船主に酒をつぐわけ、それが船の受け渡しになるわけです。そして船を下ろしたら、取り舵回りで、集落の前の海で3回りするわけで、氏神様の方を向いて3回船をゆすって、あか(水)を入れにやいかんて言いよったけど今の大きい船じゃ入らんです。そして面舵から竜宮様に酒をまきます。結局漁師に酒はつきもんです。そして帰ってきてから進水の祝いがあるわけです。そいけん進水式の時はなかなか忙しいとです。

今回は、船霊と進水式のしきたりについてお話を伺いました。(聞き手:常松 幹雄)

 

テキサスA&M大学における水中考古学
およびその活動の現状  井上 隆彦

Abstract

Texas A&M University(TAMU),established in 1861,is located in College Station,Texas,U.S.A.Nearby,on the Riverside Campus of Texas A & M,is the Institute of Nautical Archaeology(INA),established by Dr.George, F.Bass as a nonprofit institute for the study of underwater archaeology.INA and TAMU established the first nautical archaeology program in the country offering graduate degrees through the Anthropology Department.

Core curriculum of the program consists of courses in preclassical and classical seafaring,the history of shipbuilding technology,North European and Mediterranean medieval Seafaring,and conservation.

TAMU and INA have a tight and intimate relationship.The University provides office facilities and financial support,and INA provides an excellent teaching faculty and great field opportunities.

INA and TAMU currently conducts projects in the Mediterranean and Caribbean.These inclusive a Bronze Age Shipwreck project(Turkey),Port Royal project(Jamaica)and Columbus Caravel’s project(Jamaica).Students regularly participate in the projects.
 
テキサスA&M大学(略してTAMU)は、米国テキサス州、ヒューストンから160kmはどの大学町カレツヂ・ステーション(College Station)にあり、学生数約45,000人を擁する州立の総合大学である。1861年に開校された同大学は、現在では北米のみならずヨーロッパ、アフリカ、中近東、中南米およびアジアなど、世界中から学生が集う国際色豊かな大学である。1989年には日本においても福島県郡山市にTAMU郡山分校が開校された。

キャンパスは主キャンパスの他に、ウエストサイド・キャンパス、リバーサイド・キャンパスおよびガルベストン・キャンパスなどがある。リバーサイド・キャンパスには、“水中考古学の父”と呼ばれるジョージ・バス(George F.Bass)博士が創設した水中考古学研究所(Institute of Nautical Archaeology一略してINA)がある。

INAとTAMUは、同大学文化人類学部内に米国初の水中考古学講座を開設したが、現在までに、修士課程および博士課程が開講されている。

TAMUとINAとの関係は緊密である。例えば、大学側は、INAに対し、事務所設備を提供するとともに予算援助を行なっている。一方で、INAは大学に対し、水中考古学講座の提供と学生がそのプロジェクトに参加できる機会を与えている。水中考古学受講のため、全米の学生のみならず、カナダ、プエルトリコ、イタリア、南アフリカ共和国、マレーシア、などからも学生が集まっている。

現在、水中考古学講座のカリキュラムは主として古代史、海事史、造船史、船体復元、考古学、水中遺物保存学などからなっており、水中考古学を専攻している学生たちは、ここでしっかりとした基礎教育を更けている。例えば、バス教授(前掲)が担当している古代史および海事史の授業では紀元前よりビザンチン帝国までの中近東および地中海における航海とその交易史などについての講義が行われる。中世におけるイスラム世界、地中海および北部ヨーロッパにおける航海史はバンドーニンク(F.H.Vandoorninck)教授が担当している。造船史、船体復元の授業は、リチャード・ステイッフイ(Richard Steffey)教授が担当している。船体復元の授業では、学生たちが実際に船体の線画、製図を行い学期末までにはそれをマスターできるようにカリキュラムが組まれている。考古学および水中遺物保存学については、ドニ一・ハミルトン(Donny L.Hamilton)教授が担当し、特に水中遺物保存学の授業では、ポート・ロイアル港(後述)から発掘された実際の遺物が使われる。また、今秋(1990)より、ケビン・クリスマン(Kevin Crisman)教授によるコロンブスがアメリカ大陸を発見して後の、主として大西洋横断と北アメリカの水路、運河による船舶の発達史およびその交易などについての授業が追加新設された。次に現在、INAとTAMUが取り組んでいるいくつかのプロジェクトを紹介しよう。

一つは、地中海におけるプロジェクトでトルコ南西部のボルドム市(Bodrum)にその本拠を置いている。当プロジェクトは、同国南部のカシュ(Kas)市沖のウル・ブルン(Ulu Burun)という岩礁の多い入江の海底における難破船発掘作業である。この沈船は、今から約3300年前の後期青銅器時代のものであると推定されている。今まで発見された中で、世界で最も古いこの難破船の当時の国薄は未だ確証されていない。しかし、シリア地方から来たと思われるコバルトブルーのガラスのインゴット、アフリカ産の黒檀、黄金のネフレチのスカラベ(甲虫石、古代エジプト人がお守りとして使用した)、黄金の女神をあしらつたペンダント、エジプト王への贈り物として使われていたメソポタミアデザインの円筒形のシールなど、バラエティに富んだ破格に贅沢な積荷から、古代エジプト王朝のツタンカーメン王のところに向かって航海していた船と推測されている。1984年にスタートしたこの発掘プロジェクトには、毎年夏多くの学生がTAMUの野外実習の一環として参加する。博士課程在簿のトルコ人学生、ジュマ ル・プラック(Cemal Puluk)が実習団長としてこのプロジェクトを指揮している。筆者も1988年には当発掘プロジェクトに参加した。

ポート・ロイヤル発掘、調査バージ船Soon Come号とTAMU学生 1989夏

ポート・ロイヤル発掘、調査バージ船Soon Come号とTAMU学生 1989夏

もう一つは、カリブ海におけるプロジェクトでジャマイカの首都、キングストン市(Kingston)に近いポート・ロイアル港(Port Royal)発掘プロジェクトである。このプロジェクトはハミルトン教授(前掲)を調査団長とし、ジャマイカ政府の後援により1981年から開始されている。ポート・ロイアル港は、ジャマイカがまだ英国植民地であった17世紀中後期に、カリブ海における貿易の中心港として栄えていたが、1692年の大地震によりその港町の2/3が突如として海底に沈んだ町として有名である。当プロジェクトも毎年夏の野外実習の一環として、TAMUの学生のみならず全米の大学生に参加の機会が与えられている。私が参加した1988年夏には、全米のみならず、カナダ、プエルトリコの学生たちも加わった。

三つ目は、コロンブス船発見のためのプロジェクトである。当プロジェクトは、1982年に開始したカリブ海におけるコロンブス航海時の沈没船の発掘・調査のプロジェクトを前身とし、コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)を記念する500年祭を間近に控えた本年度(1990)新たにスタートした。ジエームス・バレント(James Parrent)博土が調査団長を勤める。ジャマイカ北部、聖アン湾(St.Ann's Bay)における二つのカラベル船(Caravel:15-16世紀頃スペインやポルトガルで用いられた快速小型帆船)、すなわちサンチャゴ号(Santiago)とキャピタナ号(Capitana)の発見のためのプロジェクトである。当プロジェクトには、わたしの友人であるマレーシアからきているポールとアメリカ人学生、ホークが参加しているが、両名とも私と同期で同じく水中考古学を専攻している大学院生である。

その他、現在、ドナルド・ケース(Donald H.Keith)博士の率いるチームが、南米パナマ市のリオ・ベレン(Rio Belen)という河口付近におけるガレーガ(Gallega)船の発見に挑戦している。ケース博士は元INAの職員であり、現在は独自のプロジェクトを組んでいる。

以上のように、TAMUで水中考古学を学んでいる学生たちは、そのいずれかのプロジェクトに参加し、その研究および経験を積んでいる。この他にも学生自信の判断により、北欧での発掘プロジェクト、イスラエルのハイフア大学(University of Haifa)主催によるイスラエル沖における紀元前400年の沈船発掘プロジェクト、あるいは、バミューダ博物飴主催によるフロリダ沖のスペイン船発掘プロジェクトに参加したりもしている。また、TAMU以外に目を向けてみると、現在、ノースカロライナ州にあるイースト・カロライナ大学(East Carolina University)がTAMU同様、水中考古学講座を開設しており、毎年夏季には野外実習プログラムを組んでいる。その内容は、アメリカにおける海事史、船体復元および水中での調査技術の習得などから成っている。例えば、野外実習の最初の2週間は、教室における水中考古学の講座の受講とプールでの訓練を更け、その後、実際の実習プロジェクトに参加するというカリキュラムが組まれている。また、メリーランド州にあるメリーランド大学(University of Maryland)においても、水中考古学講座の開設を検討し始めている。
 
以上、主としてテキサスA&M大学における水中考古学とその活動の現状について述べてきた。アメリカでは純粋なる学問の一分野としての水中考古学に対する認識は深い。日本においても、早くこのような大学の授業の一環としての水中考古学講座が開設されることを望んでやまない。なぜならば、水中考古学者の育成は、今後の日本の水中考古学発展のために必要不可欠な条件であろう。また、この拙稿が、九州・沖縄水中考古学協会会員の皆様に、アメリカ水中考古学の一端をお伝えすることができれば幸いである。

最後に、当協会誌に寄稿をすすめてくれた林田会長に厚くお礼申し上げます。

参考文献
(1) “Center of Maritime Studies,” C.M.S.News,1990,No.17,University of Haifa,Israel
(2) D.L.Hamilton,“TheInstitute of Nautical Archaeology at Texas A&M University;the Program and the
   Port Royal Project,”Oceanus,1985,VOl.28,no.1
(3) “Programin Maritime History and Underwater Research,” Stem to Stern,1988,VOl.4,East
   Carolina University