九州・沖縄水中考古学協会会報
第4巻・第4号 通巻14号
1998年8月31日

今日の発掘調査に思う 横山邦継

現在わが国に分布する遺跡総数は約37万ヶ所と言われ、1968年の『全国遺跡地図』刊行時の数倍に達している。遺跡はその範囲の捉え方によって数が変移するが、本来その数は有限と言える。毎年約一万ヶ所の発掘が続き、このままでは約200年で遺跡が消滅すると言われる。この場合遺跡とは殆ど陸上の遺跡を指し、海・湖沼・河川等の水中遺跡での調査は殆ど知られない。これには水中という環境の制約も大きいが、過去の生産活動の総体を計る上では欠かせない範疇であり、大干拓や港湾設備等農業振興や都市整備事業などに十分対処できる水中遺跡分布地図の整備が早急に望まれるところである。

 

鷹島町第7次潜水調査(神崎地区):1997年度調査  小川光彦

1.はじめに

Fig.1

鷹島は、1980~1982年(昭和55~57)にかけて行われた学術調査「水中考古学に関する基礎的研究」(報告書未刊)の実験調査場所に選定され、その結果陶器片や碇石等、元寇関連と思われる多数の遺物が海底から引き揚げられたことから、1981年(昭和56)7月に干上鼻より雷岬までの延長約7.5km、汀線より沖200m迄の約150万㎡に及ぶ南岸一帯の海域が「周知の遺跡」として定められた(1)。 以降、1989~1991年(平成元~3)に行われた学術調査「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」(2)をはじめ11回の緊急調査が鷹島沿岸の海域で行われており、そのうち海底発掘調査は6度を数える。これらの調査によって出土した遺物は数知れず、中国製陶磁器を始めとして高麗製陶磁器、石弾、石臼、片口鉢、碇石、磚、鉄刀、湖州鏡等多くの元寇関連遺物が見られる。また、1992年(平成4)に行われた「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」(3)においては縄文時代早期の土器が標高-25m~-26mの海底下から出土し、縄文時代早期の遣物包含層が確認され、さらに1994~1995年(平成6~7)に行われた「神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査」(4)においては、碇石を伴った木製掟が4門出土し、二石を使用した木製掟の構造が明らかにされるとともに、これらの木製碇が現位置で確認されたことにより、鷹島における海底遺跡の様相の把握に大きな指針を示すものとなった。

九州・沖縄水中考古学協会は1989年(平成元)の「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」(5)より「鷹島海底遺跡」の調査に参加、協力し、また鷹島町との委託契約により1992年(神崎地区)(6)、1993年(神崎地区)(7)、1994年(神崎地区)(8)、1995年(神崎地区(9)・船唐津漁港地区(10))、1996年(神崎地区)(11)と6次にわたって「鷹島海底遺跡」の元寇関連遺物を主とした分布調査を行ってきており、今年度は7第回目となる(12)。(Fig.1)

本調査報告は九州・沖縄水中考古学協会の活動として、鷹島町との間で結ばれた委託契約に基づき、鷹島町及び鷹島町教育委員会の協力を得て、1997(平成9)10月24日~10月26日にかけて、鷹島町神崎地区において行われた九州・沖縄水中考古学協会による「鷹島海底遺跡」の第7次海底目視調査(海底分布調査)の結果をまとめたものである。

2.調査の目的

鷹島は、弘安4年(1281)閏7月1日、東路軍・江南軍の総勢14万人の兵士と4,400腹の船が、前夜半から吹き始めた暴風雨により壊滅的な打撃を受けた地と伝えられており、小弐影資本陣跡、兵衛次郎の墓、対馬小太郎の墓を始めとして元寇関連の史跡や地名を数多く残している。また、以前より地元漁師によって陶磁器や石臼、碇石等が引き揚げられており、1981年(昭和56)に南岸一帯が海底遺跡として周知化されて以降も、数次にわたる緊急発掘調査において出土した遣物が物語るものは、史上希にみる海難事故である元軍の壊滅を彷彿されるものであり、神崎の海岸で採取されたパスパ文字による「管軍総把印」青銅印は、元軍指揮官の存在を示すものである。さらに、1994年(平成6)と1995年(平成7)に行われた「神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査」において、浚渫工事の立ち会いと海底発掘調査において出土した9門の木製掟は、元軍船と思われる船が神崎沖に投錨したことを示すものであり、鷹島南岸一帯で数多く確認されている碇石と出土した木製遺物の存在は、鷹島南岸の海域においても条件によっては船体構造の一部を遺存させうる環境にあることを示唆していると言えよう。

また、先述の調査で出土した木製掟はその錨としての性質上、原位置を保っていることは確実であり、このことから海底下1m前後に約700年前の海底面が確認されたことになる。もちろん海底での堆積状況は、その流入河川の有無や、海底地形、潮流、波の作用等の水中環境に大きく影響を受けるため、鷹島南岸のすべての地点において同様の堆積状況を呈しているということではないが、海底遺跡の様相の一つを示すものであると考えることが出来よう。

これに対して、鷹島南岸においては海岸線の潮間帯や海底面において、表面採集される遺物も多い。それは遺物そのものの性格によるところが大きいと思われるが、一方、数次にわたって行われた「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」においては砂層あるいはシルト層中に元寇関連の遺物が含まれており、堆積層中に含まれなかった遺物も海底遺跡の形成過程を考える上で、何らかの事由を持つものとして、海底の発掘調査による遣物と変わり無い存在意義を与えることが出来得る。

さらに、元軍はモンゴル兵と南宋の降兵からなる江南軍と、モンゴル兵と高麗の降兵からなる東路軍により構成されていたとされるが、遺物とその確認地点の分析を進めることにより、それぞれの海域ごとの船団の性格を読みとることも可能であり、場合によってはどちらかの一方に限定されることも考えられる(13)。

しかし、現在鷹島南岸の遺物の分布状況を示すものは1992年刊行の『鷹島海底遺跡-長崎県北松浦郡鷹島町床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査報告書-』に収められた「鷹島南岸遺物出土図」が唯一であり、鷹島海底遺跡の全体像を捉えるにはさらなる詳細データの蓄積が必要であり、鷹島海底遺跡を総合的に把握する手段の一つとしても、「元寇ロマンのしま」鷹島の実像に迫るためにも、継続的に分布調査を行うことは非常に有効である。

また1988年(昭和63)、1989(平成元)に行われた「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」(14)においては、国産の近世陶磁器の出土があり、1992年(平成4)に行われた「床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査」(15)においては、縄文時代早期の包含層が確認されており、元寇関連遺物のみならず様々な人類活動の痕跡を包蔵した「鷹島海底遺跡」の他面性を表したものと言えよう。

今回の潜水調査は目視による海底調査であり、上述した「鷹島海底遺跡」の総合的評価を行う基礎的データの収集のため、元寇関連遣物を中心に遺構・遣物の有無とその位置を記録するために行う学術的な確認調査である。

調査の組織は鷹島町の協力を得、九州・沖縄水中考古学協会の会員と潜水士からなる11名で構成された。

○調査参加者
 林田憲三、高野晋司、常松幹雄、野上建紀、小川光彦、横田浩、関野泰一、倉沢敏一、中野雄二、小野田康久、三浦清文
○調査協力
 鷹島町、鷹島町教育委員会、高崎壽、松尾昭子
○調査取材
 朝日新聞西部本社(堀英治、河原崎茂)
KBC九州朝日放送(御田幸司、安倍靖)

3.調査区域(Fig.2)

鷹島町南岸の約7.5km、沖200m迄の海域は周知の遺跡として定められており、今回の潜水調査区域もその範囲に含まれている。当該地区においては、1994年(平成6)・1995年(平成7)に行われた「神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査」(16)において、神崎港の沖約100~150m、標高-17m~-20mの海底下約1mより、9個体の木製掟が出土しており、「管軍総把印」青銅印が採集された場所でもある。尚且つ、一連の「神崎港改修工事」のため、離岸防波堤の建設後にはその東側に荷揚げ場の建設工事が計画されており、鷹島町教育委員会からの意向により、今回の潜水調査区域は荷揚げ場の建設予定地において行うこととした。ただし、これは荷揚げ場建設予定地の事前調査に代わるものではなく、あくまで海底面における遺物の有無を確認する学術調査であることは確認されねばなるまい。

Fig.2

神崎港周辺の地形 神崎港周辺の地形は、二つの丘陵端部が神崎港を挟む形でそれぞれ海底へと続き、間には埋没谷が形成されている。この埋没谷の東側の一部と、その上に形成されている波食台・海食台にあたる場所が今回の潜水調査区域である。鷹島町教育委員会より提供を受け、今回の潜水調査に使用した長崎県田平土木事務所作成の『神崎港改修工事平面図(S=1:500)』と第一復建株式会社作成の『「平成5年度施工 田港改第11-2号 神崎港改修工事(地質調査委託)」調査報告』を参考にすると、ほぼ東側半分は標高0mから-9mにかけて岩礁、礫及び礫混じり粘土からなる比較的急な斜面にあたり、西側半分は-6mから-14mにかけて少量の礫及び貝殻片を含む砂質の海底がなだらかに南西沖へと傾斜している。

これまで海底表面の遺物分布調査においては、砂・シルトからなる平坦な海底において遺物が確認されたことはなく(17)、比較的岸側の起伏のある海底において遺物の確認がなされることが多く、今回の潜水調査においては、調査区域の東側半分の範囲に遺物の分布が予想された。

尚、この区域の西側は先述の離岸防波堤建設の床掘として、浚渫工事の対象区域となっており、事前の情報では1994(平成6)年度の浚渫工事の後は手つかずの状態であるとのことであったが、潜水調査区域の設定のため神崎港に赴いたところ、浚渫に使用する見透し用の旗が設置されており、現地においてたまたま測量調査を行っていた建設会社の方に尋ねたところ、「今年の6月に残りの範囲の浚渫を終了し置換砂を入れた」とのことであった。離岸防波堤に関しては、すでに緊急発掘調査の予算を消化し報告書もすでに刊行済であり、法的には事前の連絡や浚渫工事の立ち会いの義務は無いが、先述の緊急調査は調査費用と日数の制限により、その多くが未調査であり、誰の眼にも触れないまま浚渫工事が終了してしまったというのは、なんともやるせないと言うほかは無く、緊急調査の実態を再認識した次第である。

4.調査の方法

○調査区設定(Fig.3)

Fig.3

当該潜水調査区域は前項でも述べたように、1994年(平成6)・1995年(平成7)に行われた「神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査」18区域に隣接しており、神崎港周辺の海底遺跡のあり方を総合的に判断するために、また今後予想される緊急発掘調査にも対応可能なように、便宜上、先の緊急発掘調査において用いられたグリッド設定を踏襲した。

(1)W40の南北ラインの基準点にトランシットを、バック点(T3)より98度35分の角度で神崎港南防波堤上にW40のラインの仮ポイントを設定する。次にW40ラインの基準点より東側に90度、距離40mの地点にWE0の南北ラインの基準点を設定し、ここにトランシットを移動し、W40ライン基準点をバックに南側40度で神崎港南防波堤上にWE0ラインの仮ポイントを設定する。

(2)神崎港南防波堤上のW40ライン仮ポイントにトランシットを移し、W40南北ライン上でN50東西ラインまでの足巨離を平面図上で求め、(N50-W40)の点を決定し錘を投下する。さらに、北側に70m延長し(S20-W40)の点を求め錘を投下し、海底のこの2点間に70mロープを設定する。また、WE0の南北ラインにおいても同様に、神崎港南防波堤のWE0ラインの仮ポイントより(N50-WE0)、(S20-WE0)の2点をそれぞれ求め、錘を投下し海底に70mロープを設定する。(Pl.1・2)

PL.1 PL.2

(3)海底において(N50-WE0)、(N50-W40)の2点間、及び「S20-WE0」、(S20-W40)の2点間にそれぞれ40mの東西ラインのロープを設定する。次に、N50東西ロープとS20東西ロープのそれぞれの中間に、(N50-W20)、(S20-W20)の3点を求め、W20の南北ラインロープを結び調査区域のロープ設定を完了した。尚、南北ライン3本、東西ライン2本のそれぞれのロープには、0mより始まり10m毎に距離を記したテープを取り付け、潜水時の安全性を考慮し、水深の浅くなる陸側(北及び東側)を0mに統一した。

(4)神崎港周辺地区グリッド設定の統一化を計るため、便宜上設定したロープに囲まれた範囲は南北70m×東西40mの2,800㎡であるが、実際の潜水調査区域の範囲は、設定ロープの外側に出てもロープの確認可能な外側5mまでを対象とし、南北80m×東西50mの4,000㎡が今回の潜水調査面積である。

(5)(S20-WE0)、(S20-W20)、(S20-W40)、(N50-W40)の4点には、潜水調査区域を示すものとしてφ250mmのマーカーブイを設置し、船舶航行の安全を確保し、調査船もこの海域の外で待機した。(Pl.3)

PL.3

○潜水調査方法(Fig.3)

7名の調査員によりA、B、Cの3班を作成し、(N55-E5)、(N55-W45)、(S25-E5)、(S25-W45)の4点に囲まれた4,000㎡の対象範囲を調査員の潜水経験と調査面積、潜水深度を考慮し、W10ラインとW30ラインに境界を定め3つの調査担当区域を設けた。

(1)A班(野上、小川)は、調査船「日乃出丸」にて(N50-W40)のマーカーブイより潜行し、W40南北ラインを基準に(N55-W30)、(N55-W45)、(S25-W30)、(S25-W45)の4点に囲まれた範囲(1,200㎡)を担当する。

(2)B班(関野、横田)は、調査船「日乃出丸」にて(N50-W40)のマーカーブイより潜行し、W20南北ラインを基準に(N55-W10)、(N55-W30)、(S25-W10)、(S25-W30)の4点に囲まれた範囲(1,600㎡)を担当する。

(3)C班(常松、堀、三浦)は陸上よりエントリーし、WE0南北ラインを基準に(N55-E5)、(N55-W10)、(S25-E5)、(S25-W10)の4点に囲まれた範囲(1,200㎡)を担当する。

(4)林田は調査船「日乃出丸」にて、海上より潜水中の調査員と調査区域海上の警戒に当たり、小野田、河原崎はこの間に調査状況のビデオカメラ、スチールカメラの撮影をそれぞれ行う。

各班の調査担当者は海底の透視度により、視界の及ぶ範囲内で海底に設定されたロープを基準に海底の目視確認を行い、遺物・その他の確認があった場合は、10m毎に取り付けられた距離を示す日印をもとに海底で位置を把捉し、小型のマーカーブイを設置するか、あるいは水中ノートに記録し、浮上後に調査員でその扱いについて協議する。

海底で確認された遺物は午前中の潜水調査後に調査員で協議し、午後からの潜水調査において再度複数の調査員が確認を行い、確認地点でその検出状況を35mmスチールカメラで撮影の後、確認地点を基準ロープとメジャーを用いて計測し、必要性のあるものに関しては回収する事とした。尚、遺物のレベルについては、10cm間隔で表示されるダイバーウォッチにて遺物の水深を測定し、同時に船上に待機する者が防波堤に取り付けられた潮位測定用の標尺で潮位を確認し、絶対高を求めた。

5.調査作業の安全対策と安全基準

○安全対策
(1)調査中の補助及び安全対策として、警戒船を調査対象区域付近に常時待機させ、他の船舶に十分注意をし、潜水調査を行うこととする。
(2)警戒船はその船上に、国際信号旗A旗を表す信号(旗)を示す標識や形象物を掲げ、警戒員を配備する。
(3)海況には十分に注意し、天気予報等で事前に調べる。
(4)緊急事故発生時の連絡一覧表を作成する。
○安全基準
(1)下記事項時には調査作業を中止する。  
 風速12m/秒以上の時  
 波高1.5m以上の時
(2)その他、海況の変化により、しけを伴う場合には調査船は鷹島町殿ノ浦港を避難港として定め、海況が安定するまで待機する。

6.調査の成果(Fig.4)

 
今回の潜水調査は鷹島町教育委員会の意向もあり、「神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査(1994、1995)」の東側で、近い将来に神崎港荷揚げ場の建設が予定されている付近を中心に4,000㎡の調査区域を設定し、潜水による目視確認調査を行った。

Fig.4

調査区域の東半部分(E5ライン~W20ライン)は岩礁域と大小の礫で覆われた比較的急な斜面であり、水深が浅い付近の透視度は4m前後である。西半部分(W20ライン~W45ライン)は緩やかで平坦な斜面が続き底質は砂質。透視度は3m以下で、シルトを含むため潜水中のフィンによる巻き上げによっては、透視度は極めて悪くなる。鷹島南岸におけるこれまでの潜水経験では、透視度はおおよそ3m程度であり、岩礁及び砂礫からなる浅い海域においても4~5m見えれば良いほうである。また、夏期・秋期の透視度の変化はほとんど無く、水深20mの海底において5mの透視度が確保されるようになるには、12月以降の時期まで待たねばならないが、これも海底での作業を行う前の状態に限られている。調査環境を透視度のみに限定すれば、冬季が若干良いと言えよう。

遺物は礫の斜面から砂質の平坦面に移行するW10~W20ライン付近を中心に6点が確認された。調査面積で比較すると、協会がこれまでに行ってきた海底目視確認調査の中で、最も密度が濃い遣物の分布であった。確認された遺物は以下の通りである。

(1)碇石(N21.8m-W19.7)標高-8.75m(Pl.4)
(2)褐粕壷(N30-W23)標高-8m
(3)磚1.(N37.3-W18.45)標高-5.4m(Pl.5)
(4)磚2.(N30-W15)付近、標高-4m(Pl.6)
(5)磚3.(N27-W13)付近、標高-4m(Pl.7)
(6)青磁片(N30-W10)付近、標高-3m(Pl.8)

PL.4

PL.5 PL.6 PL.7 PL.8

以上の6点の遺物の内(3)磚1、(4)磚2、(5)磚3、(6)青磁片の4点に関しては、調査区域設定ロープの撤去中に確認されたため、検出状況の撮影までにとどめ、回収は行わなかった。また、(4)磚2、(5)磚3、(6)青磁片(碗底部)の3点の確認地点は同様の理由によりメジャーによる計測が行えず目測によるものである。すべての遺物の確認地点をより正確に計測出来なかったことは残念であるが、予想以上の遣物分布密度であり、より時間をかけた調査を行えば、さらに確認される遺物の数は増すものと思われる。

今回の潜水調査においても、シルトを含む砂質の海底からは遺物の確認はされなかった。しかし、これは海底面において遺物が確認されない海域には遺物が無いということを示すものではない。床浪地区での発掘調査事例に見るように、海底遺跡の形成過程において砂層あるいはシルト層の堆積とともに埋没していった遺物が、当該調査区域においても少なからず存在することは十分に予想されよう。今後引き続き行われるであろう神崎港の改修工事に際しては、遣物分布密度の濃さと、「管軍総把印」青銅印と木製碇の出土地としての神崎地区の重要性を十二分に考慮して取り組むべきである。

尚、W40ラインの西側付近は平成9(1997)年度の床掘浚渫工事の緑に当たり、すでに自然堆積の海底面は失われている状況が確認された。後日、浚渫工事の資料と照会したところ、浚渫予定区域の範囲を超えて海底土砂が掘削されていた。これは、平成6(1994)年度の浚渫工事においても見られたことであり、その作業の性格上やむを得ない結果であるが、浚渫工事が必ずしも計画図面の通りにはなされないこと、また一旦大規模に浚渫された海底付近は、自然堆積の安定した堆積状況を維持できずに、安定する状況まで崩壊すること、撹乱を受けた海底堆積層からは、海底遺跡の様相を捉え得る精度の高い情報は得られないこと。これらのことは水中考古学に携わるものとして非常に危倶する点であり、今後、海底遺跡との発展的取り組み方について、さらに検討を必要とするものと思われる。

7.遣物について

 
調査で確認した遣物6点の内、回収したものは碇石と褐柚壷の2点である。

(1)碇石(N21.8-W19.7)、標高-8.75m(遺物 上面)。 (Fig.5、Pl.9・10)

Fig.5

PL.9 PL.10

砂礫層の斜面から砂層の平坦面に移行する地点にて、遺物上面のみを露出させ、以下は砂層に埋没した状態で確認された。検出時に露出していた部分にはフジツボ・貝類が多く付着しており、一定期間はこの状態で海底にあったものと思われる。確認当初は鷹島海域で多く見られる二石を用いた碇石の片側一個体であると認識し周辺において対になる碇石を捜索したが、残念ながら発見されなかった。

海底から回収後、貝類の付着の少ない検出時の裏面を観察した常松幹雄氏より、掟身に近い側に幅7cmの帯状に薄く削って加工した痕跡が認められるとの指摘があり、あるいは博多湾で多く見られるタイプから鷹島の碇石のタイプへの過渡的な碇石で、掟身にほぞ穴を開け碇石を差し込むという装着方も考えられたが、何れにせよこれまでの鷹島における碇石の検出事例よりこの碇石に関しても二石使用の碇石の一形態であると考えた。

その後碇石の実測のため再度鷹島を訪れたところ、町教委の松尾昭子学芸員によって、遺物表面を被っていた貝類の多くは取り除かれており、回収時には見られなかったもう一方の面も観察する事が可能となった。検出時の裏面に見られた薄く帯状に平坦面を造り出した加工痕は表面にも同様に見られ、またこれらの面と直交する両サイドの角には深さ6mmの溝が確認された。(Pl.11)

PL.11

この4箇所2種類の加工痕は粉れもなく定型化した一本造りの碇石に見られる軸(碇身)着装部と固定溝であり、柳田純孝氏(19)、林文理氏⑳の言われる博多湾型碇石の半折欠損状態のものであることが明確となった。また仮にこの碇石を実測図の状態で置いた場合、軸着装部の平坦面と上方側面の成す角度は直角を呈しており、半折部を復元すれば上方側面のラインが直線を呈し、下方側面のラインは中央部の固定清から据先側に向かって斜めに先細りするものと思われる。半折部が未確認のため断定は出来ないものの、松岡史氏の分類による角柱非対稱型碇石(1B類)に相当するものと思われる(21)。

現存長90.5cm(推定全長181cm)。軸着装部幅推定14cm×深さ0.5cm。固定満幅推定3cm×深さ0.6cm。中央部幅24.0cm×厚さ11.0cm。捨先側幅17.0cm×厚さ7.5(推定10)cm。現存重量56.5kg(推定重量113kg)。

(2)褐粕壷(N30-W23)標高-8m。

 

斜面から平坦面へ移行する付近から程近い、砂層の上面で確認された。砂層の堆積が見られる堆積台は、台風時などの強風により、強い波浪が発生した際に波の作用により影響を受けやすい範囲であり、そうした過程で遺物も移動を繰り返し、今回の調査で確認されるに至ったものと思われる。

口径10.1cm、残存高12.5cm。口緑部から胴部の一部にかけてを残す。比較的平坦な葦傘状口緑を持ち、明瞭な頸部は無く肩部は丸みを帯びて胴部に至るが、以下は欠損しており不明である。肩部には一部に耳を貼り付けた痕跡を僅かに残すが、その数、貼り付け方向とも現状では確認できない。

Fig.6

胎土にはφ1mm以下の砂粒を極少量含み、気泡が多くみられる。焼成は良好であり、釉色は暗褐色を呈す。13世紀後半から14世紀前半の中国製褐釉壷であると思われる。(Fig.6、Pl.12)(22)

PL.12

(3)回収しなかった遺物

いずれも標高-4m~-5mの斜面の礫の間に挟まれた状態で確認された。これらの遣物も幾度かの移動を繰り返しているものと思われる。3点確認された碍はそれぞれの規格が異なるものであった。
磚1(N37.3rW18.45)標高-5.4m 
磚2.(N30)W15)付近、標高-4m 
磚3.(N27-W13)付近、標高-4m 
青磁片(碗底部)(N30-W10)付近、標高-3m

これらの遣物は鷹島海底遺跡においてよく見られるものであり、元寇関連の遺物である可能性が高いものであると言えよう。いずれも標高-10m以浅という比較的浅い海底で確認されており、当九州・沖縄水中考古学協会の調査は遺物の回収を第一の目的として行うものではないが、破壊あるいは調査・研究目的以外の遺物の散逸を防ぎ、今後歴史資料として活用するためにも、海底面において確認される遺物は神崎港周辺に限らず、早期に回収の計画を進める必要があるものと思われる。

8.碇石に関する考察

PL.13

鷹島海域において確認され回収された碇石は今回のものを含めると32点である。そのうち所謂鷹島型碇石は22点。柱状不定形型碇石(2類)及びその他小型のものが8点。角柱形碇石(1類)として明確に認められるものは1点のみであり、これは半折しているため、中央部の形態については不完全ではあるが、固定溝を持たず、軸(掟身)着装部の平坦面を中央部の4面に持ち、横断面は比較的正方形に近い形状を呈し、他に類例を見ないものである。(Pl.13)。このほか、法量と断面形状から角柱形碇石(1類)の可能性のあるものが1点である。そして今回確認された角柱非対稱型碇石(1B類)が1点である。

Fig.7

現在日本をはじめとして東アジア各地において70点余り確認されているといわれる碇石であるが、定型化した角柱形碇石のうち29点が角柱対稱型碇石(1A類)であり、角柱非対稱型(1B類)とされるものは1.博多港中央埠頭西200m出土、運輸省博多港工事事務所所蔵(23)のもの(Fig.7)と、2.博多区奥の堂出土、櫛田神社所蔵のもの(Pl.14)、また3.3分の1が埋められており全体を確認することは出来ないが、福岡県久留米市長門石町本村八幡神社所在の碇石(Pl.15)が角柱非対稱型(1B類)の可能性があるものの、上例のごとく極めて類例が少ないことがわかる。

PL.14

PL.15

1994年度の神崎港沖の海底発掘調査において、二石の鷹島型碇石と掟身・掟歯等の木製部位が組み合わされた状態で出土する以前は、博多湾等で見られる碇石の形態とは異なる鷹島海域の碇石を、弘安の役の大暴風雨による影響のため半折となったものが多いと考える向きもあったが、今回回収した碇石はまさに半折状態で確認されたわけである。ただし、問題はこの碇石がいつ半折状態となったかである。1994年度調査の出土状況図(Fig.8)が示すように、掟はかなり錯綜した状態で投錨されており碇石どうしの衝突により半折したと考えることも可能である。しかし半折した中央部の断面を観察すると、実測図の表面(検出時の裏面)側の辺はフラットであるのに対して、裏面(検出時の表面)側の辺には加撃点と思われる小剥離が並び、そこに形成されたバルブよりリング・フイッシャーが広がっている様子がうかがえる。

Fig.8

発掘資料ではなく、また海底において長期間波の影響を受けてきた碇石ではあるが、前述した半折断面の状況から考えて、この碇石は使用当初、あるいは積載時には人為的に半折された状態にあった可能性も考え得るのではないだろうか。これ は木製碇の構造変化を考える上で極めて重要である。

中央部に軸着装部を持つ定型化した一石型碇石が木製部位を伴って出土した例はいまのところ無いが、その構造を考えると、必然的に2本の?身で碇石を挟み込むものと思われる。この場合碇石と木製部位の加工に労力を要する上に、碇石と掟身の接合部に外圧を受けた時には破損しやすいものと考えられ、木製部位と碇石の両者を失う可能性が高いものである。これに対して、鷹島での発掘調査でその構造が明らかとなった二石分離型の碇石は、加工が簡略で量産しやすい上に(24)、1本の碇身に碇石の幅で2つの小穴を貫通させ、その穴を通した2本の掟括(添木)で碇石を上下に挟み込むため、外圧を受けた時に掟据と碇石は失われるものの、木製碇の主体部は比較的破損を免れやすく修復も容易であると考えられる。

Fig.9

実際、鷹島海底遺跡出土の1号掟は明らかに異なる材質の碇石を使用している例である(Fig.8)(25)。残念ながら浚渫区域と発掘調査区域との境に位置していたため、碇石は木製部位から遊離しているが、周辺部での出土状況からして1号桂に伴うものであることは確かな資料である。1号掟碇石(L、旧1・2号碇石)は凝灰質砂岩製で長さ70.5cm、重量26.05kg。1号碇碇石(R、旧6号碇石)は花崗岩製で長さ68.0cm、重量26.05kgと法量的にはほとんど同じであり、幾度かの使用の結果修復された可能性が高いと考えることができる(Fig.9、Pl.16)。

PL.16

つまり、今回回収した碇石は一石型碇石として加工されたものを、木製部位に関しても量産しやすく、また修復も容易である二石分離型碇石として再利用、あるいは使用のために搭載されていた可能性も考えられるのである。もちろんこれは海底面において表面採集された碇石からの発想であり、憶測の域を出るものではないが、今後良好な出土資料が増加することにより、種々の碇石の使用方法(掟の構造)も明らかとなるであろう。

「撹乱された遣物散布地として、限りなく元寇に近い周知の遺跡」(26)と位置づけられている鷹島海底遺跡であるが、1994・1995年の神崎港沖の発掘調査において、海底下1mに遺構面が確認された。しかしながらこの際に報告された陶磁器のほとんどが岩礁域の海底面において表面採集されたものか、あるいはエアーリフトからの撹乱を受けた遺物であり、木製掟に共伴する陶磁器は確認されなかった。ただ、放射性炭素(C14)年代測定法による3号碇の年代値は770±90(yBPP)を示し(27)、加速器質量分析計による年代測定においても近似した年代値が得られている(28)。また、名古屋大学のCHIME年代測定を用いた産地推定によれば、3号桂碇石の花崗岩は中国福州の花崗岩にほぼ一致することが明らかにされている(29)。

鷹島においてこれまでに回収されている32点の碇石の内、「博多湾型碇石」と言われる一石型碇石(角柱形碇石)はわずか数例に過ぎず、半数以上が「鷹島型碇石」と言われる二石分離型碇石であり、 これが限りなく元寇に近い周知の遺跡で見られる碇石の大勢を占めていると言えよう。しかし、碇石の形態変化と分布・年代との関係はいまだ明らかにされていないのが現状である。昨年、何点かの碇石の所在を確認したところ、遺物としてもぞんざいに扱われることが多く、所蔵機関の名称変更や碇石そのものの移動も多く、非常に手間取った想いがある。鷹島町歴史民俗資料館・埋蔵文化財センター所蔵の碇石は、報告書に掲載された一部を除いて、碇石の資料として知られていないのが実状であり、再度入念に観察し資料化する必要性があるものと思われる。また、中国山東省蓬莱水域での出土例が示すように(30)、鷹島以外の海域においても二石分離型碇石の資料が確認される可能性もあり、今後も注意が必要である。

〈註〉

  1. 『床浪海底遺跡』-長崎県北松浦郡鷹島町床浪港改修工事に伴う緊急発掘調査報告書-、鷹島町教育委員会・床浪海底遺跡発掘調査団 1984
  2. 鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究』平成元~三年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書、九州大学文学部考古学研究室 1992
  3. 鷹島海底遺跡Ⅱ』 鷹島町文化財調査報告書第1集、長崎県鷹島町教育委員会 1993
  4. 鷹島海底遺跡Ⅲ』 鷹島町文化財調査報告書第2集、長崎県鷹島町教育委員会 1996
  5. 鷹島海底遺跡』 長崎県鷹島町教育委員会 1992
  6. 鷹島海底遺跡-鷹島町神崎地区潜水調査報告書-』 九州・沖縄水中考古学協会 1992
  7. a 『鷹島海底遺跡-鷹島町神崎地区潜水調査報告書Ⅱ-』 九州・沖縄水中考古学協会 1993
    b 林田憲三「鷹島町神崎地区潜水調査:1993年度調査」 『NEWSLETTER』 九州・沖縄水中考古  学協会会報 Vol.3-No.1 1993.10.31
    c 石原 渉「1993年度神崎地区潜水調査:出土遣物」 『NEWSLETTER』 九州・沖縄水中考古学 協会会報 Vol.3-No.1 1993.10.31
  8. a 『鷹島海底遺跡-鷹島町神崎地区潜水調査報告書Ⅲ-』 九州・沖縄水中考古学協会 1994
    b 林田憲三「鷹島町神崎地区潜水調査:1994年度調査」 『NEWSLETTER』 九州・沖縄水中考古  学協会会報 Vol.3-Nos.3/4  1996.1.31
  9. a 『鷹島海底遺跡-鷹島町神崎地区潜水調査報告書Ⅳ-』 九州・沖縄水中考古学協会1995
    b 林田憲三・石原 渉「鷹島町神崎地区潜水調査:1995年度調査と採集遺物」『NEWSLETTER』  九州・沖縄水中考古学協会会報 Vol.4-No.1 1996.12.31
  10. 『鷹島海底遺跡潜水調査報告書Ⅴ-船唐津漁港地区-』九州・沖縄水中考古学協会 1995
  11. a 『鷹島海底遺跡潜水調査報告書Ⅵ-神崎地区-』九州・沖縄水中考古学協会 1996  
    b 石原 渉「鷹島町神崎地区潜水調査;1996年度調査と採取遺物」『NEWSLETTER』九州・沖縄水中考古学協会会報 Vol.4-No.3 1998.3.31
  12. 鷹島海底遺跡潜水調査報告書Ⅶ-神崎地区-』 九州・沖縄水中考古学協会 1997
  13. 石原 渉氏の教示による。
  14. 前掲書5
  15. 前掲書3
  16. 前掲書4
  17. 前掲書6~11
  18. 前掲書4
  19. 前掲書4 第Ⅴ章、一「交易船と元軍船の碇石」
  20. a 「碇石展-いかりの歴史-」『常設展示室(部門別)解説77』 1995
    b 「碇石展-いかりの歴史一」『Facata(福岡市博物館だより)』18 1995
  21. a 松岡 史「碇石について」『白初洪淳昶博士還暦記念史学論叢』
    b 松岡 史「碇石の研究」『松浦党研究』2 1981
  22. 実測及び撮影は林田憲三氏による。
  23. 現在、福岡市埋蔵文化財センター所蔵と思われるが未確認である。
  24. 石原 渉氏の教示による。
  25. 池田榮史「第Ⅲ章 出土遣物について」前掲書4
  26. 森本朝子「長崎県鷹島海底出土の「元寇」関連の磁器についての一考察」 『法瞼口達 』博多遺跡群研究誌 第2号 1993
  27. 財団法人 九州環境管理協会「測定結果報告書」前掲書4
  28. 池田晃子・中村俊夫・足立 守「元寇船の碇から採取された木片・竹片の14C年代」『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書
  29. (Ⅸ)』名古屋大学年代測定資料研究センター 1998
  30. 鈴木和博・唐木田芳文・鎌田泰彦3氏による共同研究。(松尾昭子氏の教示による。)
  31. 王 冠倖「中国古代の石錨と「木掟」の発展と使用-鷹島の「木柱」について-」 前掲書4
 

中国福建省泉州の碇石  小川 光彦

5月5日から5泊6日の日程で、九州・沖縄水中考古学協会主催の中国泉州・福州研修旅行に参加し、泉州湾発見の碇石を実見する事が出来た。

まず、我々が訪れたのは泉州海外交通史博物館(Pl.1)で、ここには潯美村発見の碇石が2点展示されており、博物館館長王連茂氏の御好意により碇石を実測することが出来た。

PL.1 PL.2 PL.3 PL.4

Fig.1(Pl.5前方)は泉州市城東郷潯美村においてベンチとして使われていたものが、華僑大学の叶道叉氏(Pl.2左から2番目)の眼にとまり確認された碇石である。全長290.0、碇身着装部幅24.0×深さ1.0、固定満幅6.0×深さ1.5、中央部幅36.0×厚さ20.0、先端部幅21.0×厚さ13.0、22.0×12.5(単位は「cm」)。重量385kg。石質は白花尚岩で完形品である。幅、厚みとも中央部が最も大きく、据先側に行くにしたがって先細りする角柱状を呈するが、幅狭の面の一方は比較的直線に近く、もう一方はより強い角度で先細りし、この斜行の強い側の稜は面取りされている。そのため中央部以外の短軸方向の断面形状は六角形となる。松岡史氏の分類による角柱非対稱型(1B類)に近いが、一方の側面は直線を呈していないため、厳密には角柱非対稱型の亜種と言えよう。

Fig.2

Fig.2(Pl.5後方)は続いて発見された碇石である。時間的な制約により実測は出来なかったため、石原渉氏と計測した数値に若干の補測を行い、模式図として作図した。全長226.0、梶身着装部幅21.0×深さ1.0、固定満幅5.5×深さ1.5、中央部幅33.5×厚さ20.0、先端部幅17.0×厚さ10.0、18.0×10.0。重量は250kg。石質は白花崗岩。完形品であるが捨先部の一部が欠損している。Fig.1の碇石同様に幅狭面の一方の稜は面取りされており、断面形状は六角形を呈するが、側面は両面とも中央部から培先側に斜行しており、松岡氏の分類による角柱対稱型(1A類)に近い。但し、幅広面の両端部それぞれの中間を結んで中軸線を求めると、中央部においては面取りされている側が二部強広く作られており、角柱対稱型に近い亜種と言えよう。中央部幅・掟身着装部幅はFig.1のものより狭いが、全体的な形状はFig.1の碇石に比べて寸胴である。

次に我々は泉州湾出土の宋代沈船とその遣物を展示している泉州湾古船陳列館を訪れた(Pl.3)。ここでは東海郷法石村出土の碇石が「木爪石碇」として復元展示されている。全長232、掟身着装部幅16×深さ1.0、固定満幅6.0×深さ1.0、中央部幅29.0×厚さ17.0、先端部幅22.0×厚さ9.5。重量は237.5kg。石質は白花崗岩。一見したところ角柱対稱型(1A類)の碇石である。これも一方の側面の稜には面取りが施されており、碇を吊り下げた時には面取りを施された側が、下方にくる状態で復元されている。

PL.5

以上泉州湾発見の碇石は3点とも白花崗岩製ではあるが、法量はそれぞれに異なり、それに付随して掟身着装部の幅もFig.1(潯美)は24cm、Fig.2(潯美)は21cm、法石村のものでは16cmと違いが見られる。これは碇石の大きさと掟身の太さの関係を表しているが、木製掟そのものの大きさとの関係を表しているとも言えよう。

また3点とも一方の側面の稜に面取りがなされている。ただし、先端部に向かって斜行する角度がそれぞれ異なり、Fig.1(潯美)のものは上方の側面がより直線に近く、松岡氏の定義された角柱非対稱型(1B類)に近い形状であり、法石村のものはおそらく角柱対稱型(1A類)と思われ、Fig.2(潯美)のものはその中間に位置付けられる。

前稿の1997年度(第7次)潜水調査において神崎港沖で採取された碇石や、国内における角柱非対稱型(1B類)碇石の例として取り上げた3点の碇石も、あるいはこうした中間的なものであるかもしれない。碇石の形態とその分布をより正確に把握するためには、国内の碇石も再確認する必要があろう。

参考文献

松岡史「碇石の研究」『松浦党研 究』2 1981
楊欽章・叶道叉「船舶石制碇泊工具初歩-ノ臥泉州湾新発現的三 牧石談起」『海交史研究』89-11989(各碇石の重量と法石村出土碇石の法量については本文献の数値による。)