九州・沖縄水中考古学協会会報
第5巻・第1号 通巻15号
1999年11月30日

古代出雲と九州  常松幹雄

先頃、出雲大社の祭礼『古伝神嘗祭』を見学する機会があった。この祭は11月23日の夜、新穀を神前に供え、繁栄と五穀豊穣を祈念するもので、ほのかな明かりにうかぶ神官の所作は、まさに弥生土器に描かれたシャーマンを彷彿とさせた。

ところで出雲大社には江戸時代に掘り出された武器形の祭器、どうか飼犬が伝えられている。この青銅器は二千年ほど前の北部九州で作られたものである。近くの荒神谷遺跡から九州産の銅矛が出土したのが約3世紀後の1985年。最近では出雲市内の遺跡で北部九州の弥生土器が相次いで見つかっている。誰が運んだかは別として、海を介した交流の様子は確実に解明されてきている。

 

中国福建省連江県定海村に於ける1990年度の調査と試掘報告(上)*
中豪共同考古学専門委員養成班定海調査発掘隊 山崎 龍雄

はじめに                    愈偉超
1.調査に至るまで                張威
2.定海の自然環境、歴史的環境と過去の調査状況  張威
3.白礁遺跡の発掘前の測量、遣物の採集と試掘   劉本安
4.白礁遺跡出土遺物               劉本安
5.遺物の保存処理                田豊
6.最後に                    張威

はじめに

人類が海底から古物や財宝を引き上げるという活動は、ずっと古い時代から始まっていた。しかし、水中考古学が実際に野外考古学の一部門を構成する科学となるのは、むしろ1943年にフランス人が自給気式潜水器(スキューバ)を発明した後からである。現在、外国の考古学者達は既に、ひととおりの水中考古学調査の発掘と記録方法を確立している。わが国は遅れて1986年になってから自前の水中考古学隊を結成することを決定した。この要請を受けて、中国歴史博物館は1987年11月に“水中考古学研究室〝 を設立し、館員張威をオランダ、米国に水中考古学の習得のために派遣し、国家文物局文物所もまた楊林と王軍をオランダ、米国、日本に水中考古学を習得させるために派遣した。つまり中国の海域は大変に広大であり、古代の海上交通と海外貿易もまたそれなりに発達していた。ゆえに中国の領海範囲内での古代の沈没船も非常に多い事が予想され、将来水中考古学調査を行う需要の総量が多いことが予想される。これは当然多くの専門調査員が必要になる。しかし、わが国では当時自力で養成する能力はまだ無かった。

ちょうどその頃、オーストラリアのアデレード大学東南アジア陶磁研究センター(Research Centre for Southeast Asian Ceramics,University of Adelaide)主任ピーター・バーンズ(Peter Burns)博士は中国に対して共同して水中考古工作を行う希望を表明し、我々が早急に水中考古の専門員を養成したいという要望に理解を表明した。こうして、我々とバーンズ博士は1989年1月27日北京の建国飯店に於いて、中国歴史博物館とアデレード大学東南アジア陶磁研究センターが共同して、中国で第1期の水中考古専門員養成班についての協議を行うことについて署名を行った。双方の計画準備段階を経た後、1989年9月から1990年5月にかけて実施した。1年近くの訓練期間を経て、アデレード大学東南アジア陶磁研究センターはバーンズ博士本人のほかに、前後してジェルミー・グリーン(Jeremy Green)博士を派遣して中国側の人員と共同して訓練計画の制定と実習地点の選定を行い、ポール・クラーク(Paul Clark)氏は水中考古学の課程を教授し、実習段階に於ける実際の業務の指導を行い、潜水教練についてはデピー・カドゥェイン(Devi Cadwayne)女史が担当し、デビイド・ミラー(David Millar)博士は潜水医学の講義と中国側の隊員の健康状態の検査を行った。中国側は国家文物局の直接の指導のもとに、中国歴史博物館以外に広東(深?)、広西、福建、山東4沿海諸省から考古学専門員を養成訓練班として選抜し、学習させた。教科の学習、潜水訓練と水中考古実習を経た後、養成員11名全員が合格で終了し、1990年7月27日、北京の中国歴史博物館内に於いて、中国の国家文物局張独勤局長とオーストラリア在中国大使シャドウェイ(Shadoway)から終了証書が与えられた。ここに於いて、わが国は第1次の水中考古の専門隊をもつことになった。この体制でわが国はかなりの正確さで、沿海のいくつかの地域で様々な原因に因って発見された海底の古代遺跡の状況について理解することが出来るようになり、かつ迅速に体制を集中することにより、ひとつの規模がそれほど小さくない水中考古学隊を結成し、相当規模の正規の調査作業を進めることが出来るようになった。この報告はすなわち、この養成班の実習調査工作が学員達によって具体的な操作が完成しただけでなく、また報告の多くの部分については何人かの学員が書いたものであった。

私はまず簡単に養成班の経緯と将来の展望、その作用について記述し、この場をお借りして、この訓練班の成功に大変な心血をそそいだ中豪双方の人々、特に豪方の講師の皆様の心からのご厚情に対して、心から感謝の意を表します。もしその情熱、細心の講義、具体的指導がなければ、わが国の第1次水中考古専門員はこんなにも早く出現しなかったであろうと思います。私はまた福建省博物館、福州市文化局と連江県人民政府及び定海村の責任者。同行者と友人達の理解と支持に同様の感謝の意を表します。もし皆様の援助がなければ、今回の水中考古の実習工作は絶対行われなかったでしょう。
(1991.5.1.中国歴史博物館に於いて)

1.調査に至るまで

1980年代、一艘の英国サルベージ船が南中国海で、古代沈没船から極秘のうちに大量の珍しい磁器を引き上げ、競売にかけた。このことは中国政府と文物考古部門の関心を引き起こし、ある中国の有名な文物考古の専門家は早く中国の水中考古工作を展開し、中国の科学研究領域の空白部分を補うべきだと訴えた。水中考古学は古代、人類が海洋、河川などの水域活動で残されてきた水中文化遺産について考古調査、発掘と研究を推進する新興の学問分野である。中国の考古工作者は80年代半ば以前においては、まだこの領域には足を踏み入れていなかった。中国政府は水中考古事業の展開を決定した後、国家文物事業管理局の指導で、国家科学委員、交通部、国家海洋局、外交部、参謀諜部、海軍、中国社会科学院考古研究所、北京大学考古学系などの単位が参加した国家水中考古の実行委員会を結成し、実行委員会は中国歴史博物館に委託して水中考古工作業務の設立と推進の責を負わせた。中国歴史博物館はここに水中考古学研究室を設立した。

水中考古専門の人材を養成し、中国水中考古学の発展を迅速に展開する為に、中国歴史博物館とオーストラリア・アデレード大学東南アジア陶磁研究センターが共同して水中考古専門員の養成訓練班を開設した。中国歴史博物館の兪偉超教授が班主任を担当し、オーストラリア・アデレード大学東南アジア陶磁研究センター主任ビター・バンーズ博士が班副主任を担当した。班員は総勢11人、それぞれ広東、広西、福建、山東などの沿海の省市文物考古部門と厦門大学人類字系と中国歴史博物館からの出向である。

養成班は1989年9月~12月に山東省青島で第一段階の潜水教学と水中考古学の理論と方法の講義を行った。オーストラリア側では潜水教練をカドゥェイン女史、潜水医学はデイビッド・ミラー博士、水中考古専門はポール・クラーク先生が第一段階の研修工作を担当した。第二段階の水中考古の現場実習は1990年3月~5月に福州市の連江県定海村で行い、中豪共同の定海水中考古調査、発掘隊を組織した。隊長は兪偉超教授、副隊長はビター・バンーズ博士、オーストラリア側の現場責任者はジェルミー・グリーン、ポール・クラーク、中国側は張威、楊林であり、実務班は全考古の隊員である。彼らは栗建安、林果、吾春明、崔勇、劉大強、彭全民、李珍、邸玉勝、田豊、劉本安、李濱で、他に中国歴史博物館撮影技師徐海濱が調査と試掘工作に参加した。

福建省文化庁、省文管会、省博物館、福州市文化局、文管会、連江県人民政府、県文化局と定海村委員会の今回の工作に対して熱烈な支持と援助に対してこの場をかりて感謝の意を表します。

2.定海の自然環境、歴史的環境と過去の調査状況

福州市の連江県横堤郷定海村は?江河口の北側定海湾東北端、北緯26゚17′、東経119゚47′に位置する。定海村の三面は海を臨み、東南は馬祖列島と対略し、北部は筱?郷に隣接する。 定海の周囲の海域内には島礁群が多く、その中のいくつかの岩礁は干潮時には海面から露出し、航行が困難になる。比較的大きな島礁には尾仔嶼、亀嶼、青嶼、自礁、可門嶼、四丹嶼などがある。定海の海域は毎年七、八月には台風の影響を受け、波はかなり高い、冬春は東北の季節風が卓越し、波は比較的小さい。夏秋は南風が卓越し、大波が出現し易い。海流の方向と速度は近海では潮汐の影響を受け、時によって変化するが、一般的に毎秒1mを測る。海水の表層温度は年平均約20℃、二月頃が低温期で8~9℃、八月頃が最高で27~28℃に達する。海水温の温度差は2m毎に1℃下がり、夏期には温度差が小さく、冬期に大きくなる。海水の透明度は季節による変化がかなり大きく、春季は差が大きく、夏季は比較的良い。夏季は深さ3~4mまで見ることが出来る。通常は潮汐と気象の影響を受け、透明度もまた変化する。潮汐は不正規の半日潮に属し、正常な潮差は4mで、大潮の時は6~8mに達する。海域は基本的には近海の水深10mの等水線内にあり、平均水深は10m前後である。 定海は連江県内に位置するが、遅くとも商周時代には人類活動があった。連江県の文化財担当者は定海周辺の馬鼻、敖江(郷)の調査で商周時代の?江下流地区で土着文化遺跡を発見した。

図1.定海の位置と水中遺跡分布図

図1.定海の位置と水中遺跡分布図

西晋太康年間(西暦280~290)に定海は名前を亭角といった。北5km筱?郷大?村で西晋から南朝時期の墓地1か所を発見し、何基かの墓には明確な西晋と東晋の紀念銘があった。これは当時黄岐半島が既にかなりの程度の発展があったということを反映している。 唐、宋、元代には航海と海外交通が繁栄し、最盛を迎えた時代である。福州港の歴史は長く、漢代は東治と称し、早くから東南沿海の重要港であった。定海は?江河口から北東に出入りする福州港の海上の門戸を守る要所であり、航海と海外貿易の発展に従って、定海海域の海上交通は繁忙を究めた。また船舶は関江河口に出入りするために停泊し、かつ補給を受ける最初の地点であり、沿海貿易の中継地点の一つでもあった。定海には今日まだ元代ペルシアのマニ教の石刻の遺跡が残っており、当時の海外交通の隆盛を反映している。70年代以来の、定海海域で発見されたり引き上げられた大量の古代文物は、またこの状況を裏付けている。

倭寇は元時代から始まり、明時代にかけて猛威を振るった。明建国後、倭寇の東南沿海の侵略と盗難を防ぐ為に、福建沿海の海防を強化した。定海の地理的位置から、自然に海防の重要地点の一つとなった。明浜武二十一年(1387)江夏侯周徳興は福建海防経略の命を受けて、「置福建沿海指揮使司五、日福寧、鎮東、平海、永寧、鎮海、領千戸所十二、日大金、定海、梅花‥‥‥(略)」とある。定海は福寧指揮使司の所属で、「会城重鎮」と称し、今日に至るまで定海には明代に造られた城塞が残されている。清代は明代の海防の設置を踏襲し、定海千戸所は清代の兵制に従って、小??と名を改め、「小??為省会門戸、在定海所」とあるように重要な場所であった。明清時代、定海は軍事的要地であるが、海上貿易、航海活動は中断することはなかった。現在定海村にはなお一基の明代琉球商人の墓が残されている。当時福州から琉球までの航路は定海が先ず最初の停泊地である。

定海の周囲の海底には、厚さ約5mの貝殻の堆積層がある。70年代末期以来、当地の漁民は大規模な貝穀層の掘り上げを行い、焼石灰の原料として出荷した。殻の引き上げ中に、漁民は尾仔嶼、大?渣、青嶼、白礁などの幾つかの島礁の周囲で水中から大量の古代遺物を発見し引き上げた(図1)。これらの遣物は発見されるや、すぐに福建省の各級の文物管理部門の関心を引き起こし、保護措置が取られ、大部分の文物は全て集められて、一部福州市博物館や連江県文化館に保存され、一部は定海小学校の標本室に陳列された、何人かの考古担当者はまたすぐにこの発見は定海で水中考古工作の展開が必要であるということを文章にして呼びかけた。ある人は定海が五代?国主審知が開いた「甘棠港」の所在地の可能性があると見なした。 定海発見のこれらの水中遺物は磁器が主体であり、小量の銅、鉄、錫、木器があり、またいくらかの炭化した椰子、なつめなどの果実がある。磁器の器種でおもなものは碗、罐、壺、盞(小型の碗または杯)などがあり、釉色のおもなものは白磁、影青(青白)磁、黒釉磁、青磁、醤釉磁などである。時代の多くは宋元代で、少量は唐あるいは五代及び明清のものである。1988年9月、国家文物局と中国歴史博物館水下考古学研究室の二名の専門家が定海を訪れ、水中考古工作を展開する為の現場条件を事前調査し、定海での調査を準備作業を開始した。1989年11月再び、オーストラリアの水中考古学専門家のポール・クラークと中国歴史博物館水下考古学研究室の専門員が一緒に定海を訪れ、現地の状況を把握し、養成班の為に実習地点を選定した。自礁付近で水中遺跡を探索し、2個体の黒釉盞(天目茶碗)を引き上げ、ついに定海で実習を進めることを決定した。90年3月から5月まで実習は計画にもとづいて行われた。

3.白礁遺跡の発掘前の測量、遺物の採集と試掘

定海海域での広範な事前調査と実施探査の進行の後、白礁遺跡を今回の水中考古調査の試掘地点とすることに決定した。

白礁は定海村の東北部に位置し、定海村の管轄に属す。また定海村の住民の住む島からはほんの3.5kmの距離にある。白礁西南面は陸地から約600mの距離で、連江県の有名な寺院-海潮寺とは海を挟んで向きあう。自礁の東面は黄湾嶼である。黄湾嶼は面積が比較的小さな無人島で、水源はないが、過去軍隊が駐屯したことがあり、島にはまだ何棟かの朽ち果てた建物が残っているが、普段は無人である。連江から黄岐鎮に至る航路は白礁と黄湾嶼の間の1000m余りの広さの水域を通っていく。

白礁の規模は大変小さく、南北長約50m位である。自礁は一つのかなり大きな礁石と白礁の東北方向から東に延びる約40mの暗礁群を含んでいる。高潮時には暗礁は水面に入らない。暗礁の南面は白礁1号遺跡である。3月初めから5月末まで、我々はここで遺跡の位置の確定、発掘前の測量、表面採集、小面積の試掘等の作業を行った。遺跡番号はDB(Dinghai Baijao)とする。 作業の最後の数日、更に遺跡付近の地形の状況を明確にするために再度自礁周辺の調査を進め、結果として偶然ではあるが、暗礁の北面で一箇所青花磁器を特徴とする遺跡を発見した。番号をDBⅡとし、二回にわたる表面採集と位置の確定を行った。

(1)遺跡の確定

定海周辺の海底には大変な厚さの甲殻動物の残骸の堆積がある。これらの残骸を形成した穀灰は焼石灰の好材料であり、70年代から海底の殻灰の掘り上げが、当地では一つの重要な副業となっていた。自礁付近もかつて殻灰を掘り上げていた場所で、海底遺跡はひどく撹乱を受け、今日まで、海底にはいまなお穀灰を掘ったショベルの大穴といくらかの廃棄物が残されている。

白礁以東以南200m足らずの水域範囲内全てに、黒粕茶碗(天目茶碗)を主に含む文化遺構が散布しているのを発見した。正確な遺跡の中心位置を確定する為に、何度も水中探索を行い、最後に自礁東北部に南西から北東に延びる一条の暗礁の南面に遺物が集中する部分を発見し、ここにトレンチを設置することにした。地点を選定したあと、水中考古学でよく利用するトランシット・ライン法(参照物法)を用いて位置確定を行った。 トランシット・ラインは既に確定している地点の周囲で、二組または二組以上の陸標を選択し、それぞれの組はお互いに距離が遠く隔たった陸標で構成される。例えば山頂、永久的な建物などを利用するものである。この二組の陸標のある特徴的な部分を繋ぐ線がちょうど良く通るところを確定点とする。このような二組の陸標を繋ぐ線の交点がすなわち確定した地点である。

位置を確定する時、まず水中へ潜り、遺跡の周辺で体積が比較的大きい1個の石塊(その後、海生物で覆われた凝結物であることに気付いた)を選び、浮標を繋ぐ。往来の漁船の影響を受けないように、浮標は水面下1mの所に設定し、水面から浮標を見ることが出来るようにし、また浮標が往来の漁船に引っ掛かって無くならないようにした。周囲の地形を観察し、適切な陸標を探しだして撮影し、トランシット・ライン示意図を描く。この道跡は即ち自礁1号遺跡である。当時まだ2号遺跡は未発見であったので、故に番号を90DBとし、引き上げた遺物の番号もまた90DBT……とした。

白礁2号遺跡の発見後、またトランシット・ライン法を用い位置を確定した。この方法を用いて位置を確定すれば、その後は時間を隔てていても、記録した陸標を基にすれば、新しく位置を確定し遺跡を探し出せる。

(2)基準線の設定、グリッドの設定

多くの潜水探索、綿密な実地調査と陸上の全面的な分析を経て、最後に浮標の巨大な凝結物の南西側の一点を白礁1号遺跡の基準点(0,0)点とし選定した。基準点から方位角2450の方向に沿って南西方向に長さ20mの基準線を設定した。基準線と暗礁の方向は基本的に平行している。基準線の設定後、基準線と暗礁間の基準線から4mの所に、簡単で確実な三平方の定理を利用して平行する第二の基準線を設置する。この4×20mの範囲内に、我々は2×2mのグリッドを設定する。実際の作業ではただその中の12箇所のグリッド90DBTl-T12について表面採集と測量を実施した。 このグリッドを設定した場所は、ちょうど海底の一つの不規則な長い丘であり、丘の上には大小の石塊で満たされており、これらの石塊の角がはっきりしており、大多数は方形を呈し、海水の運搬作用で形成された自然堆積のようではなく、石塊の隙間には大量の文化遣物が散布している。調査グリッドは基本的にはこの地区に設けられた。

(3)表面採集

遺跡内の文化遺物の包蔵と分布の状況を把握し、あわせて試掘の最も良い位置を確定する為に、我々は設定した各グリッドについて、表面の遺物の採集と記録の作成を行い、遣物分布図の作成を行った。白礁2号遺跡は発見した時間が遅かったので、グリッドの設定がまだ出来ておらず、従って遺物の表面採集もただ簡単に遺物の方向を記録しただけである。

白礁1号遺跡は、平均的な水中透視度は2mにみたず、海中の流れも急である。多すぎる縄が潜水員の工作に影響を与えるのを防ぐ為に、我々はグリッドの周囲をすべて縄を用いて囲まずに、ただ鉄柱を立てて標記とし、さらにL型鋼(アングル)を用いて一つの2×2mの枠組みを作り、枠組み上に電線を用いて十字に区切り、枠組みをA~D4単位に区分し、採集の番号は90DBCTIA、90DBCTIB=…・などとした。このように、水中での劣悪な環境下にあって、表面採集遺物の位置の正確性を最大限度保障した。 遣物の分布状況から見て、遺物は主にTlとT2の両グリッドに集中していたが、両グリッドの遺物は単純であった(図2)。

図2.遺跡表面遺物分布模式図

図2.遺跡表面遺物分布模式図

(4)発掘前の測量

水中では、海底の透度の差は大変大きく、海底地形全体の状況を把捉することは大変難しい。このことから、遺跡の地形の特徴の理解と堆積状況の把握を一歩進める為に、我々は自礁1号遺跡に対して地表の特性と地形の状況を含めた現況の測量を実施した。 前文で述べたグリッド内の大量の石塊の取り上げについては、我々は平面実測を実施した。このようにすることはこの石塊が沈船と関係があり、またこれを利用して水中で平面実測技術の訓練とする為であった(図3)。平面実測が完成した後、すぐに遺跡表面についての三次元測量(レベリング)を実施した。

図3 図4

図3 図4

この三次元測量で採用したのは平面垂直測量法(高低差測量)である。その原理は起点(0,0)に一本の長さが2mの鉄製の基準杭を打ち、基準杭の頭に一点の測量基準点を置き、基準点から遺跡表面の基準点(0,0)までの高度hを記入する。基準点を水平面とする事で、測量時の基準面とする。基準面上に縦方向に1m毎、横方向に20cm毎に縦横の交差点を選び、下方向に遺跡表面の高度Hを測り、各測点Hの数値を基に遺跡表面の縦・横断面図を描く。実際の測量では、地表の起伏がかなり大きく、一基準面での平面測量では難度がかなり大きく、データー精度としてもかなり差がある。このことから、具体的に各部分ごとの測量の時に、実際の状況を基にして、別に1m毎の基準点上に実測点として1点を選び、そして実測面から各測点の距離dを測る。作図では実測したデーターdと実測面から基準面までの正負足巨離hを加えて、基準面から各測点の距離とする。即ちH=d+hである。 この種の方法を用いて、遺跡表面の143箇所のデーターを測量し、遺跡の13箇所の横断面図を描き、更にこの断面図を基に遺跡の等高線を描く・(図4)。

(5)試掘調査の概要

追跡の地形について、遺跡表面の分布状況の分析を受けて、最後にグリッドTlとT2を選んで試掘を行った。試掘調査は5月7日から開始し、5月25日に終了した。試掘面積は4×2mであるが、気象の変化と時間の制約から、実際にはTlについて試掘を行っただけである。

水中発掘工作はまず一つの水平枠組みを作り、(0,0)、(0,2)、(0,4)、(2,0)、(2,2)と(2,4)の6箇所に垂直に6本の亜鉛メッキ鋼管を打ちつけ区割杭とする。その後、遺跡表面(0,0)点から1mの高さにL型鋼を用いて2×4mの水平の型枠を作り、水平の測量面とする。水平の枠組みに一本の長さが2mの三角鉄鋼を(0,0)から(0,4)と(2,0)から(2,4)に至までの二本横方向の枠組みに打ちつけ、一つの水平で横方向に移動が可能な横軸を構成する。横軸の移動をⅩ軸、(0,0)【(0,4)方面の一辺をY軸とし、更に一つの鉛直方向に吊した巻尺で測量した水平測量面から遺跡中の被測定遺物の深度をⅠ軸とする。Ⅹ軸とY軸上にもまた巻尺を固定する。このように一つの遣物の発掘するたびに、この簡単で迅速な方法を用いて、それのⅩ、Y、Zの三次元の座標を測定し、陸上での整理作業で測定のデーターをもとにして、各遺物の遺跡での位置を描く。

発掘に用いた主要な機材は消防用高圧ポンプを改良した抽泥機(水中ドレツジ)である。抽泥機の作業原理はポンプのホースを延長して水中に通し、「ト」状の先端部のノズル管に繋ぐ、ノズル管のほかのニロは抽泥管と出泥管にそれぞれ繋ぐ。ポンプは高圧水を抽泥管の反対方向に向けて水を吹き出し、抽泥管内を低圧の状態にし、抽泥管外の泥砂を吸い込むことが出来る。このような抽泥機の改良によって、抽泥口と出泥口が直結し、問には何も隔てるものが無く、泥砂で詰まることも無い。泥は比較的おだやかに汲み上げられ、遺跡の発掘に対して容易に制御出来る。

またこれと併せて、我々は発掘途中でジェット噴水器を用いた手煽法を採用した。即ち水で泥砂を遺跡の表面から煽り出し、煽りたてて散らしてしまうかあるいは抽泥機から汲み上げる。発掘時には、一つの遺物毎にラベルを付けて番号を与え、その位置と高さを測り、更に遺物を取り上げ袋に入れ、水面に運び出す。

試掘によって90DBTlの表層が貝殻灰と海底泥砂の混合堆積であり、表面には大量の石塊が散布していたことが判明した。表層出土の遣物と表面の遺物は基本的に叫致し、また黒粕蓋(いわゆる天目碗)と青白磁浅腹碗が中心であり、少量の明清から近代に至るまでの遣物、例えば碍や綱の重り、青花磁器片等をも含み、この堆積層が撹乱層であることが明らになった。

現在、この堆積層は季節風の変化による海上作業の時間的限界から、まだ完全には精査されていない。わずかに基準点に近い部分しか重点的な発掘が進んでいない。 基準点周辺で、撹乱層を除去したあと、暗灰色の海泥堆積が露出した。その土質はかなり細かく締まっており、噴水器法(手煽法)を用いても通用せず、たがねに近い工具で泥を掘り起こし、更に抽泥機で選別した。灰色の海泥中の遺物は単一で、黒軸天目茶碗と青白磁浅腹碗で器形は完全で、ほかの遺物は混じっていない。発掘の最後の数日、海泥下33cmで一つの木塊が出土した。木塊の断面は突巨形で、加工されている。木塊の一端は露出しているが、別の一端はトレンチ外に延び、浮標の巨大な凝結句勿の下にある(図5)。凝結物の表面の精査によって、凝結物上に貝殻・天目茶碗があるのを発見した。器形は完全であったが、凝結は固く、とり外す方法がなかった。

図5

図5

時間が押し迫ってきた事から、木塊と凝結物は取り外しが行えず、写真撮影だけを行ったが、透明度の問題もあって、あまり良く撮れなかった。したがってこの木塊が船のどの部分であるかは、なお今後の調査を行う必要がある。

(6)水中撮影

今回の水中考古学作業では、二人のカメラマンとオーストラリア方の教員との水中考古隊員全体の緊密な協力によって、水上と水中の作業状況と遺跡の状況の写真撮影を成功のうちに撮影することが出来た。そして福建省博物館の協力のもとに、一本今回の水中考古作業を記録するビデオを撮影した。これは中国での水中考古調査を撮影したフイルムとしては、やはり初めてのものである。

水底遺跡の資料を可能なかぎり得るために、また試行的に水中でつなぎ写真を撮影してみた。水中での連続写真は特別な方法を用いて、水中遺跡全体の一部分ずつを撮影した後、陸上に持って上がり、一定の比率に写真を現像して接続したものである。接続された写真は遺跡の現状を実際のように反映出来る。連続写真をもとに、数学的手法を借りて、特に、コンピューターを利用して正確に遺跡の平面図を描くことも可能である。この方法(写真測量)は正確で、かつ早く、経済的であり、また一枚の写真から大量の情報を得ることが出来る。国外の水中考古発掘において、特に堆積状況が複雑なもの、自然条件があまり良くない遺跡の発掘で普通に採用されている。

今回は主に四角架(グリッド垂直撮影)の方法を用いて接続写真撮影を試してみた。グリッド本体の枠組みは1本鉄筋を用いて作られた底辺と高さが全て1mの正四角台錐を呈するものである。その頂上は大変小さく、ちょうど水中カメラを架けるのに都合がよく、レンズを下に伸ばすことが出来る。その効果は陸上での三脚で撮影するのに相当し、ゆえに四角架と言う。しかし、四角架の作用はカメラを固定するだけではなく、その高さをコントロールし、かつ被写体からレンズの足巨離を1mと保証する。四角架の4辺はカメラの中に入るので、写真を接続する時の目安となり、また一つの比例基準となる。

使用カメラは二コノスⅤ型の水中専門カメラである。接続写真に使うレンズは15mmで、15mmのレンズは水中での光度は陸上での35mmのレンズに相当する。定海での発掘中、撮影時は常に露光時間の調整を行い、極力一枚の遺跡連続図を作成しようと努めた。しかし、この作業の季節は福州地方ではちょうど雨期の時期であり、山での洪水が多量に海に入り、海水を濁らせた。同時に淡水と海水の混じりによって、水中に多量のプランクトンが発生し、水中に光がほとんど差し込まず、そのうえ大量の糸状の微生物が浮遊して、水中の透明度に著しく影響を与えた。このような情況のもとでは、フラッシュ或いはその他の補助光源を使用しても効果がなく、連続写真を撮影する手立てはなかった。しかしどうであろうとも、我々が今回水中考古撮影を行ったのは初めてであり、その成功と失敗は、すべて今後の為の経験として蓄積した。

※ この論文は中国歴史博物館館報 第18-19期、242-258頁、1992に載せられた定海遺跡に関する調査報告である。中国側の好意により許可を得て、山崎龍雄氏の翻訳により会報誌に載せることができました。この論文は本誌で二回に分けて載せることとなり、そのため便宜的に題目の最後に(上)を付ることにしました。

 

芦屋浜の漂着古銭  山田 克樹

発見当時の状況

北部九州と芦屋浜の位置

昭和53年12月小学生が発見した両手一杯の古銭から話は始まる。12月の響灘の荒波は大量の古銭を渚に洗い出した。噂は町内の小・中学生の間に“古銭収集ブーム〝を起したほどであった。漂着はその後3年間続き56年3月で途絶える。拾われた内で資料館に収集されたものだけでも、古銭約8000枚を数えた。他に銅鏡5面、龍泉窯系青磁数十点、肥前系陶磁器コンテナ23箱などがあった。

古銭の種類

古いものでは前漢(BC175)の半両銭から新しくは江戸時代の文久永寳まで51種に分類できる。解読できるもの約4500枚のうち95%が宋銭であった。波・砂による磨耗が激しいものも多く波に洗われた期間が長いことが判る。

芦屋浜漂着古銭一覧表
銭名 時代 初鋳年 枚数 銭名 時代 初鋳年 枚数
1 開元通寳 621 1010 27 紹聖通寳 北宋 1094 1
2 カン徳元寳 前蜀 919 2 28 元符通寳 北宋 1098 31
3 周通元寳 後周 955 1 29 聖宋元寳 北宋 1101 27
4 宋通元寳 北宋 960 3 30 崇寧通寳 北宋 1102 2
5 太平通寳 北宋 976 17 31 崇寧重寳 北宋 1103 2
6 淳化元寳 北宋 990 21 32 大観通寳 北宋 1107 8
7 至道元寳 北宋 995 47 33 政和通寳 北宋 1111 69
8 咸平元寳 北宋 998 14 34 宣和通寳 北宋 1119 7
9 景徳元寳 北宋 1004 24 35 正隆元寳 1157 3
10 祥符元寳 北宋 1009 2 36 淳熈元寳 南宋 1174 9
11 祥符通寳 北宋 1009 27 37 紹熈元寳 南宋 1190 4
12 天禧通寳 北宋 1017 11 38 慶元通寳 南宋 1195 2
13 天聖元寳 北宋 1023 25 39 皇宋元寳 南宋 1253 1
14 明道元寳 北宋 1032 6 40 成淳元寳 南宋 1260 3
15 景祐元寳 北宋 1034 37 41 景定元寳 南宋 1260 2
16 皇宋通寳 北宋 1038 72 42 洪武通寳 1368 51
17 至和元寳 北宋 1054 4 43 永楽通寳 1408 57
18 至和通寳 北宋 1054 20 44 朝鮮通寳 朝鮮 1423 2
19 喜祐元寳 北宋 1056 8 45 宣徳通寳 1433 4
20 嘉祐通寳 北宋 1056 4 46 寛永通寳 江戸 1636 2706
21 治平元寳 北宋 1064 18 47 常平通寳 朝鮮 1678 4
22 熈寧元寳 北宋 1068 66 48 乾隆通寳 1736 4
23 熈寧通寳 北宋 1071 1 49 嘉慶通寳 1796 4
24 元豊通寳 北宋 1078 55 50 道光通寳 1821 2
25 元祐通寳 北宋 1086 29 51 文久永寳 江戸 1863 2
26 紹聖元寳 北宋 1094 28 4559

資料数が多い古銭は開元通寳1010枚、煕寧元寳66枚、政和通寳69枚などである。この他に江戸時代の寛永通寳が2706枚漂着している。これは、芦屋が中世の国際交易港から近世には国内交易港としての役割へとシフトしていった事を物語っていると思われる。(但し当資料には模鋳銭が混在していることはほぼ確実である。残存状態の悪い資料からいかに「本来銭」と「模鋳銭」を別けるかが今後の課題であろう。)また今回の漂着銭にどの程度関係しているかは不明だが江戸時代の漁師の間では出漁前に豊漁と安全を祈願してお金を海へ投げ入れる風習があったとの報告もある。さらに明治時代に遠賀川河口の大規模な渡深工事が行われており、その時の廃土に含まれていたと言う説もある。いずれにせよ芦屋の海には、中世・近世の貿易船が相当数沈んでいると思われる。もっとも芦屋沖の海底は砂丘状になっている部分が多く沈没船の発見は難しいと言われている。

なぜ芦屋沖では遭難が多かったか。芦屋沖は北東風と南風がぶつかる波浪の荒い所として運行する船を悩ませてきた海の難所であった。(芦屋町誌1972)。「目方(北東)吹くらし水茎の岡の湊(芦屋の古称)に波立ちわたる」『万葉集』、「心よせ浮寝のよはに見し夢や芦屋の灘の荒き潮風」『草根集』、「此所西北に海有て、其末は辺際なく、はるかに異国の海に通ずれば、つねに風浪あらくして、船客の魂を驚かす。されば芦屋洋(あしやなだ)とて、船客の甚あそるる所や」『筑前統風土記』、などと記されている事がそれを裏づけている。また宗像大社資料に「芦屋から新宮一帯の漂着物については宗像大社の修繕費にあてる」とあり、このことは遭難が珍しく無かった事を示す資料である。

なぜ芦屋で見つかるのか?

平安末期に日宋貿易を推し進めた平家の被官に山鹿兵藤次秀遠がいた。秀遠は芦屋を海運基地として支配していた。壇ノ浦の合戦時には平家方の主力を勤める武将として歴史に名を残している。鎌倉時代初期の禅僧、無本覚心は禅の公案集として知られる『無門関』を日本へ伝えた高僧である。覚心は宋からの帰国にさいし、船を芦屋で乗り換えている。芦屋津を支配していたのは、秀遠の遺領を受け継いだ宇都宮氏系の山鹿氏だった。山鹿氏は北条氏の被官となっている。北条氏が交通の要衝を次々と手に入れていったのは有名である。中央の勢力も交通・交易の要として芦屋を注目していた事がわかる。

室町時代の芦屋は、日明貿易を独占していた大内氏の家臣、麻生氏が支配していた。麻生氏も朝鮮との交易を試みていることが文書に残っている。最近町内からもこの時期の遺跡が続々と発見されている。江戸時代最盛期には伊万里港から出荷される肥前磁器の約2/3を筑前芦屋の商人が商っていたという記録がある。肥前陶磁器の国内交易が盛んになったのは鎖国令によって海外交易が禁じられてからのことである。芦屋商人の旅行は元禄(1688)頃から始まっているようである。寛永通貨が多く漂着銭に含まれるのは、この旅行商人に関係するものではないかと思われる。

以上、推測の域を出ない詰も含まれるが、今から20年ほど前の漂着古銭の紹介をさせてもらった。芦屋海岸の汀線は現在も変化し続けており、浸食される部分と、浜が広がる部分との差がいちじるしい。又海と砂の中から過去の記録が発見されるかもしれない。

1950年代の芦屋浜

1950年代の芦屋浜

漂着した古銭

漂着した古銭

現在の芦屋浜、砂浜が沖合まで広がっている

現在の芦屋浜、砂浜が沖合まで広がっている

芦屋浜で採集された古銭の一部

芦屋浜で採集された古銭の一部