第Ⅰ章 調査・研究の概要

1.研究の目的

玄界灘は、古代から中世にかけて大陸との往来の重要なルートになっていたために、各時代の沈没船の存在が予想されている日本でも屈指の海域である。日本では中世以前の交易船はこれまで発見されておらず、そのため、海底に沈没している中世の交易船の発見は対外交渉史の解明や国際交流の歴史に重要な資料を提供することになる。日本におけるこれまでの水中考古学の調査事例では、このような問題意識にもとづいた調査は皆無である。当研究の海底遺跡の探査で特筆すべき点は、水中遺跡として定義する木造沈没船の船体の発見への手続き、過程であろう。それはまず木造沈没船が海底に存在していたという情報の提供があり、この情報の信憑性を確かめるべく情報提供者への沈没船状況の聞き取り調査を行った。そして、目標となる彦山丸の沈没の事情を周辺資料から収集し、これにもとづき調査海域の設定、探査機器の評価・選定を行い、沈没船の探査を実施した。その結果、探査機器や探査方法にはまったく問題はない。唯一の障害は探査機器の使用料が高い点である。そのうえ、天候に左右され、しけ待機によりさらに割高になってしまい、有効に機器を可動させることが難しいことである。このことは日本の水中考古学が停滞している要因の一つにもなっている。しかし、当研究はこの問題を数年かけて克服してきた。(1)

これまでに当研究で採用してきた海底遺跡発見へのプロセスは、これからの日本の周辺海域の海底遺跡の探査や確認調査の方法で、その指針を示す画期的なものとなることであろう。沈没船の発見は日本の水中考古学の発展に大きく貢献するばかりでなく、関連する諸科学や束アジアの水中考古学の研究に寄与するものと確信する。

玄界灘では平成6年(2)(1994)・平成8年(3)(1996)・平成9年(4)(1997)の3年間、中世の交易船と思われる沈没船の探査を九州・沖縄水中考古学協会によって行われており、これら一連の調査で、彦山丸の船体の残骸がサイドスキャン・ソナーの探査でとらえられている。その位置もDGPSで測られて、ROVで映像的に記録されている。さらに、彦山丸に所属した日常品である肥前磁器の皿や船の積荷の石炭などが発見されていて、水中考古学の専門分野としての海底遺跡の探査および確認調査の方法の実践が、すでにこの海域で進行中であった。そして、中世の交易船の発見に迫る時間と調査資金の確保が最も重要な課題となっていた。この段階で水中考古学として船の発見と、それに続く確認調査は、玄界灘での水中考古学の学問の確立にとって必要なものとなっていたことは明白な事実である。

平成10年(1998)からの当研究では、これまでの沈没船の目撃情報と九州・沖縄水中考古学協会が行った探査の結果の総合的な評価の再検討を行なうことであった。その結果、沈没船の存在すると想定できる海域が、これまでの探査海域よりわずかであるが、ずれていることが判明した。そこで、未調査の海域(第Ⅰ章.3「研究実績の概要」を参照)、彦山丸の北側3600mの範囲内をサイドスキャン・ソナーを用いての探査、および、水中テレビロボットにより異常反応地点の確認を行い、さらに有望な個所と思われる異常反応地点には実際に潜水調査を行なうことにした。潜水調査で船体を確認した場合には残存状況を精査するとともに、遺物の散布状況を調べ、遺跡の現況を写真に記録し、そして、略測図を作成した後、沈没船の性格の特定や年代決定のために数点のサンプルを引き揚げるための遺物の採集を行なうことを当研究の目的とした。

【注】

(1)西谷正編、1992『鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究』平成元年~三年度 文部省科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書、九州大学文学部考古学研究室
研究代表者:西谷正、研究分担者:荒木伸介、田辺昭三、沢田正昭、西村康、大塚初重、岡田茂弘、田中良之、渡辺芳郎
日本の水中考古学は、調査・研究・保存・活用の一連の研究方法が確立していないため、これを解決するために鷹島海底遺跡を研究フィールドに選び、基礎的研究を行った。その際、サイドスキャン・ソナーおよびサブボトム・プロファイラーを使用して海底を探査した。海底調査にはこれら機器が不可欠であり、成果も十分に期待できるものであった。海底からの出土遺物の保存方法にも材質により個々の化学処理が行われ、文化財の保存に関する技術の確立がほぼ解決され成果を上げた。

(2)九州・沖縄水中考古学協会、福岡市・福岡市教育委員会「志賀島勝馬沖の沈没船調査」朝日新聞西部本社創立60周年事業 平成6年(1994)
玉井敬信、1996『玄界島北東海域宋代沈没船及び志賀島勝馬沖出土の碇石の調査概要-94年度(H・6)と96年度(H・8)調査より-』。この報告書は九州・沖縄水中考古学協会に提出されたものである。

(3)九州・沖縄水中考古学協会編、1996『博多湾口玄界灘北東海域における中世交易船の沈没船探査と確認査』(財)九州国立博物館設置促進財団 平成8年度
研究者:西谷 正、三島 格、高倉洋彰、林田憲三、折尾 学、塩屋勝利、高野晋司、石原 渉
博多湾口玄界灘北東海域の海底で、昭和11年(1936)にこの海域で遭難し沈没した「彦山丸」(929トン、石炭運般の鉄鋼船)付近の海底でサルベージのために潜った潜水夫が、海底の砂からわずかに現われている木造船の残骸、2個の細長い碇石や散乱した陶磁器類、大型の嚢を発見し、また、付近にあった硯1点を引き揚げている。この情報にもとづき発見者および「彦山丸」の当時の記録や、この船をサルベージした関係者ならびに潜水夫の証言から推測し、この海域に木造船(中世の交易船)の存在する可能性があり、当該海域をサイドスキャン・ソナーで精査を行い、目的の沈没船を発見することにした。しかし、探査は海上の天候の悪化のため途中で断念した。ところが、調査海域の南部で6ケ所の異常反応地点を記録にとらえた。これらいずれもが自然の岩礁ではないことを確認し、これらの異常反応地点の確認が次回の探査の課題になった。

(4)九州・沖縄水中考古学協会編、1997『玄界灘北東海域における中世交易船の沈船探査と確認調査』(財)九州国立博物館設置促進財団、KBC九州朝日放送45周年記念事業 平成9年度 研究者:西谷 正、三島 格、高倉洋彰、林田憲三、折尾 学、塩屋勝利、高野晋司、石原 渉
前回の探査では当該海域の1/2範囲の探査で、6ケ所に異常反応地点の記録を得ている。今回は精度の高い衛星位置測定器(DGPS)と連動したサイドスキャン・ソナーと水中テレビロボット(ROV)を使用して沈没船の探査を行った。当初の目標としていた「丸」の約350m南側に別の鋼鉄船が偶然にも探査機器で発見された。しかし、この発見は「彦山丸」の位置と6ケ所の異常反応地点の相関関係の把握に混乱を生じさせた。結果的には、異常反応地点の2ケ所に絞って探査を行なったが、中世の交易船の発見には至らなかった。

(西谷 正・林田 憲三)

2.研究実績の概要

平成10年度(1998)に行った調査では、玄界島沖北東4.5km地点の海域で、昭和11年(1936)に沈没した石炭運搬船「彦山丸」を中心に、一辺が1800×1800mの調査区城を6区画(1A,1B,2A,2B,3A,3B)設定した。そのうち最重要区域2A,2Bおよび3Aに対して、Klein社の音波探査機のサイドスキャン・ソナー(ハイドロスキャン2000)/サブボトム・プロファイラーと三井造船の水中テレビロボットRTV-100MKⅡEX)を用いて、調査を行った。調査範囲内を精査して、海底面および海底下の状況をDGPSで位置を測定しながら記録した。海底下の状況を記録するサブボトム・プロファイラーは木造船が海底下に埋没していることが想定される条件のもとで、この機器の能力を大いに発揮することができた。探査範囲内には昭和30年前半に目撃されている中世の交易船と思われる木造船が、「彦山丸」付近の海底下に埋没していることが想定されることから、探査によって得られたすべての海底状況を記録したデータは探査業者の技師によって分析が行われた。それらすべてはまとめられ、当研究の検討会議に資料として提出させた。検討会議では収集したデータの評価と判定を行った。その判定から引き出された中世交易船と思われる異常反応地点62ケ所を選び、それらを一覧表にすることにした。これら62ケ所の異常反応地点は国家座標(Ⅹ・Y)、緯度・経度、形状など、「彦山丸」を基準にした位置(距離、真北角度、磁北角度、方向)で表記した。

62ケ所の異常反応地点から過去の目撃情報にもとづき、木造船と思われる地点を優先的に30ケ所選び、それらの地点を重点的に映像で確認する作業を行った。DGPSにより正確な位置は、調査船を異常反応地点に的確に誘導し、そこより水中テレビロボット(ROV)を潜水させ、目標物をとらえ、船上のモニターにリアルタイムで写し出し、映像で確認する作業を行った。これらの映像記録はすべてVHSビデオテープに収録した。探査中は調査の全容を把握する必要があるため、調査船に研究代表者を含む研究協力者は調査船の定員制限内で乗船し、調査海域での調査船の正確な移動や探査の方法を的確に船長および探査機器のオペレイターに直接指示を出すことができた。この探査では、中世交易船と思われる木造船を発見することが最優先されたが、海底からは予期しなかった大型の爆弾や漁網の残骸、古タイヤ、空き缶なども発見された。また、この調査海域では別の沈没船を発見することも予想された。なぜならば海上保安庁も戦前戦後を通して、この海域のすべての沈没船を記録として残していない。船舶の航行に支障をきたす沈没船は、わずかな残骸を海底に残して、すべてがサルベージされることになっている。このように処理された沈没船は海図には載らない。そのためサルベージされた沈没船はその船名も沈没地点も記録から削除される。正確な沈没位置の記録も持たない船の残骸が、海底で発見されるのはそのような理由からである。この事実は平成9年の探査で発見された沈没船(No.1)の残骸が異常反応地点としてとらえられたが、海上保安庁も把握していない船舶であった。船名が不明の沈没船は、今回の調査で、中世交易船の目撃証言を行った同一人物により昭和30年代にサルベージされていたことが後日、明らかとなったことからもうかがえる。この沈没船(No.1)が彦山丸と間違って確認したことも、この海域の探査では起きている。平成11年度の探査で得た記録映像のなかには、中世交易船と思われる木造船の存在は確認されなかった。しかし、残りの異常反応地点32ケ所のいずれかに木造船の存在が予想されることとなり、平成12年度の探査では、その目標を絞りこむこととなった。

平成12年度の調査計画では、彦山丸周辺の海底に昨年度得た62ケ所の異常反応地点で、すでに確認を終了している地点以外の約30ケ所を確認することであった。しかし、昨年の探査終了後、異常反応地点と、それらを確認した記録を再度評価すことにした。昨年の探査でとらえ、記録した異常反応地点をROVを使って確認する過程で、海底において記録にとらえた物体が一体何に反応したのかを把握することが最大の課題になった。サイドスキャン・ソナーのデータが記録紙上に映像として表される。これをいかに整合性よく解読することができるかが、今年度の調査を行う上で、最初に行わなければならないことであった。前年度の異常反応の記録とその確認作業で得られた経験が、今回の調査で生かされなければならない。記録上のどのような形状、木造船が海底に残存しているあらゆる状況を想定しながら選ぶ作業を行った。そして、昨年度確認できなかった残りの30数ヶ所を確認するよりも、昨年度の探査の記録から木造船と想定できて、未だ選んでいない異常反応地点を新たに27ケ所加え、これらに優先順位(A~Cランク)を付け、確認調査を行った。

確認調査の目標地点として最も注目した反応地点は、彦山丸の東方向350m付近の海底に2組の大きな岩礁地帯がり、その岩礁地帯の間にポケット伏に広がる砂地の海底がある。そこを今回、最重要候補として選んだp27地点がある。この地点の確認調査が期待できた。この異常反応地点より順じ約1週間の日程で、確認調査を行った。しかし、中世交易船と思われるp27地点は、岩礁が船の輪郭を思わせるように整然と並んだ自然石の集まりであった。確認調査は彦山丸周辺に集中して行ったが、思いがけず、ROVの故障が発生したために、性能が落ちる旧式のROVを使わざるをえなくなった。十分な効果を出さないうちに、その上、調査船のアンカーが故障したため、DGPSで調査地点へ正確に誘導しても、その場に一定の時間留まることができなくなった。費用の関係で調査船や、確認作業の機器もROV(三井造船、RTV-100)からアイボール(日立造船、水中テレビカメラ)へと替えた。しかし、機器や調査船を替えたことは調査の効率が落ちる原因ともなった。このアイボールは自走できをいため、船を注意深く操船し、DGPSで位置を決め、船を目的地に誘導した。ところが、アイボールのケーブルが船のスクリューに絡む事故が起きてしまった。また、新たに用意させた同じ型のアイボールはその役目を十分に発揮せず、機械に水が浸入してしまい、探査を続行することが不可能となった。そのため今回選んだ新しい異常反応地点のすべてを確認することができず、確認しえたのは優先する候補地として挙げていた、p16、p18、p22、p23、p27のほか数地点に留まった。今年度確認したすべての異常反応地点は中世交易船に該当するものではなかった。

海底遺跡の探査と確認調査および水中考古学に係わる基礎資料として、北海道江差町における開陽丸の海底遺跡の発掘調査や出土遺物の保存処理などの資料収集、ならびに、沖縄、長崎県鷹島、奄美大島などにて関係資料の収集を行った。これら収集した資料の一部は、本報告書の付編に載せることにした。

付編には、玄界灘の海底で目撃されている木造船にあった碇石、硯、陶磁器などに関連した資料が含まれている。北部九州を含む玄界灘で発見された船の桂に使用された碇石の資料は、今後の「中世交易船」の調査では基礎的資料となるものである。また、長崎県鷹島は、現在日本で行われている水中考古学の実践のフィールドであるが、最近の緊急調査では、元寇船の船体の一部が海底で検出されている。また、1994年の緊急調査では木製の桂とその枝に伴う2組の碇石が出土した。この碇石は「鷹島型碇石」と呼ばれ、「博多湾型碇石」が-石の碇石であるのとは異なっている。玄界灘の海底で目撃された碇石らしきものは「博多湾型碇石」といえるものであろう。玄界灘の海底から目撃者によって引き揚げられた唯一の遺物は、硯である。残念ながら目撃者の硯に関する記憶は曖昧であるが、暖味な記憶でも年代や製作地を決める手がかりがあることもわかった。

(西谷正・林田憲三)