第Ⅱ章 調査に至る経緯

1.神野社長への聞き取り調査

はじめに

志賀島・玄界島神海底探査を始める端緒となったのは、1994年に北九州市若松区の海洋土木会社神野建設神野仁社長から当該海域の木造沈船に関する情報が寄せられたことに依る。以来、神野氏情報に基づいて探査を継続してきたが、ここでは2度にわたって神野氏に直接お会いして聞き取り調査を行った記録を掲載する。記録は録音テープを起こしたものであるが、紙数の制限上、不必要な個所や重複部分は省略し、言葉もできるだけ標準語に近く改めたことをお断りしておく。

1.第1回聞き取り調査

1)聞き取りに至る経過

福岡市教育委員会は、1994年度に国・県の補助を受け、志賀島・玄界島遺跡発掘事前総合調査(遺跡カルテ)を行った。この調査は、将来の開発に備え、事前にその地域の遺跡の範囲や性格等を把握することを目的としたもので、1992年度にはリゾート開発が予想された能古島を対象として実施され、1994年度はリゾート開発や港湾整備事業が予想された志賀島・玄界島を対象とし、塩屋勝利・林田憲三が担当した。調査の内容は陸上の分布調査や試掘調査のみならず海底遺跡も対象としたもので、福岡市教育委員会での初めての海底探査が行われたものである。この調査が金印発見の地志賀島を対象にしていることから、報道機関も注目するところとなり、調査状況がテレビや新聞等で大々的に報道されたのである。

この調査について神野氏が知られるところとなり、1994年6月の初めに志賀島の現地調査事務所に次のような電話をかけてこられたのである。それは、「昭和30年代に玄界島沖をサルベージしていたところ、○△山丸という山の名の船名の鋼鉄船が沈んでおり、石炭が数多く散乱していた。そこから1,000mほど離れた場所に木造船があった。その船は舷が海底から15~20cmほどの高さで出ており、舶先の両側に長い石があった。鉄などがないか探したが船釘も無かった。船体には間仕切らしきものがあり、たくさんの焼き物があった。当時はそんなものに興味はなく、とにかく鉄を探した。青黒く光るものがあったのでそれだけを引き上げた。鶴と亀みたいなものを彫刻した硯だった。2年ほどして骨とう屋の前を通りかかったら同じような硯があったので持ち込んだところ2万円で買ってくれた」というものであった。半信半疑であったが、焼き物と硯の話に信憑性があることから木造船の場所を記した海図をお願いし、早速ファックスを送っていただいた。神野社長の話と海図の場所を水中考古学協会の石原渉副会長を加えて検討し、中世の交易船の可能性があることから、本人と直接お会いして聞き取り調査を行うことにしたものである。

2)聞き取り調査の内容

年 月:1994年7月27日

場 所:福岡市東区神野建設福岡支店

調査者:林田、塩屋、朝日新聞中村俊介記者

神野:(海図を示しながら)この沖の方をですね、グミの調査をしていたわけですよ。ナマコの一種をね。その時に元の九大の先生(九州大学名誉教授塚本博氏)が、私らの事務所のすぐ横の方に組合長になっておられたわけです。その人が、一生懸命みんな探しているということで、それなら教えてあげようかということになった訳です。私らが、今やっているのはこのずっと沖の小呂島のそばなんですけどね。で、ちょうどこの沖に、クリノカミ(栗ノ上)というのがあるんですね。

(林田):瀬が?

神野:はい、瀬があったのですよ、今灯台がついてるとこに。昔は灯台が無かったんですよ。それで、ちょうどたまたまそこのところ(粟ノ上)と、この方に、沈没船を保険会社から譲り受けて調査に来たんですよ。そして、玄界島の、あの時は今の息子さんではなくて、親父の方ですね。中村さんというね。

(塩屋):中村謙一郎さん?

神野:その親父の方ですよ。その人が組合の理事をしよったですね。それで私らが聞きに行った訳です。こういうことがあるんじゃないかどうかと。それがたまたま、それではないだろうけど、鶴丸(鶴丸商店一現在の鶴丸海運、北九州市若松区)の船が沈んで、ここにありますよということで。その時は鉄を積んだ船を探しに来たわけですよ。それで、そこにブイを入れたけどさ、ははは(苦笑)、石炭の切れっ端じゃないけど、許可が下りた船で、私が探しよったのは向こうだということで。一応それに目印は入れといて、その近所を探していた訳ですよ。そしたら、たまたまそれがあって、それで盗られたんでないかと。その当時は、まだ30年ごろだからですね。それで船自体は、別の船があったわけですけど、またそれが何も無いんですよ。たまたまその日に限ってちょうど私が乗って行ったわけですよ。それで、潜って行って見てやるということで潜ってみたんですよ、私が。水深は深かったけどね。そしたらまあ、そりゃあ今日昨日の船じゃないぞと。この前ちょっと電話で話したように、もう錨が石であるとかね。それで、水嚢とかそんなのがずうっと堆積して。それで、船自体が、もう釘がないぐらいな船ですわね。

(林田):いわゆる、木造船ということ?

神野:そうですね、木造だけでなしにね。どうかな、楔みたいなのを打って作っとる船なんですよ。

その時は、まだ、釘は無かったんかねえ。その船ができた時はね。それで、帆船は間違いないです。

古い船は古い船ですよ。

(塩屋):(絵を措きながら)こういう具合になってました?棚が。

神野:こう肋骨があるでしょう、マツラが。

(塩屋):はあ、マツラですね。

神野:それから留めとるあれが全部腐ってこういうふうに逆止めしとったですねえ。

(塩屋):ああ、楔で。

神野:それで、冗談言うてね、こんな船造るとは神武天皇まで遡って造るんじゃないんじゃないかと。その時は水中カメラ持って行って映したらよかったけど、もうそんなんが無いですもんね。だけど、空色みたいな、色付けしたような陶器が大分乗っとたですよね。

(林田):染付けみたいな。ちょっと自っぽいこんな感じの。

神野:ああ、そうそう、うんうん。ただまあ、そんな物が何になるかいというようなもんでね。こりゃ唐津、唐津ちゅうようなもんでね。それでその時に、硯だけがちょっと珍しかったと、まあ、そういうことなんですよ。

(林田):硯はどんな形だったとかは?

神野:いや、何かねえ亀か鶴か知らんけど、そういうやつがこう彫ってね。

(林田):全体に彫ってあって、その中に、硯の?

神野:そうそう。

(塩屋):周りの縁の部分といいますか。

神野:うんもう、このくらいですねえ。かなりちょっと大型でね。

(塩屋):大きいですねえ。

神野:うんうん。そんなのがあったけどねえ、そりゃまあただ証拠に持って上がっただけでね。たまたま、古本屋みたいな店でかなり値がいっていたから、それなら、家にあらへんか、ということで持っていったら、買うてくれたと。

(林田):同じ物じゃなかったわけですね、古本屋さんにあったのは。

神野:いやあ、それがよう覚えんのですよ。その時は銭になりさえすりゃあいいというだけのことでね。それで後になって、もう1回探しに行かないかんなあと思うて、宝物だけん。そしたら、文化財になったら、お前、自分のものにはならんぞと言われるもんじゃから、そりゃたいへん、あほらしいのうと言いよったところが、たまたまそうなった(電話で連絡した)訳ですよね。自分らがそんな物持っとってもしょうがないから。いい物か悪い物かよく記憶にないけど、古い船は間違いなかったですね。

(林田):その船は海底面から割と上まで出てたんですか。

神野:いや、あんまり出てなかった。もう10cmか15cmぐらいですねえ。それでその船は、海底の泥かなんかで腐っているんじゃないですかね。分かるのは分かるでしょう、すぐに。

(林田):30何年前にわずかしか残ってなくて、海底面から出てなかったとなると。

神野:いやあ、その近所に綱が引いてあるかどうか知らんけどねえ、皿みたいな物もちらかっとった。

それと、魚礁を入れてなかったらね、あれは、すぐ分かるですよ。

(塩屋):魚礁は、あのへんは?

神野:いや、もういっぱいあるですけどね。私が漁業協会の会長しとるんですけど、大体そこら辺は詳しいつもりですけどね。小さい、これぐらいの普通のロープをね、漁船でこう重りをつけて、それからすうっと2隻で引っぱってひっかかったぐらいですから。そのもう一隻の沈船を探すつもりでね。

それで、その近くということは間違いないんですよ。

(林田):サイドスキャン・ソナーというのがありますね。あれで当たりをつけようかなと思ってるんですよ。それである程度その場所が絞り込めれば海底のビデオを持ち込んで船上でモニターできるような形でですね。

神野:あんまり遠くまで探さんでもね、私は分かると思いますね。ここにね、なんとかザンマル(○△山丸)というのが沈んどったんですよ。そりゃあもう、完全に分かるはねえ。鉄の船だけど台風かなんかで沈んでねえ。もう戦前の話ですよ、あれね。

(林田):海上保安庁に聞きましたら、そういう話の情報が入ってこないんですよねえ。

神野:まあ、ちょっと載ってないかもしれん。昔のね、その当時の海図には載っとりました。

(塩屋):今の海上保安庁の資料にはないんですよ。

神野:いやあ、そんなことはない。そしたらねえ、ツルマドンに聞いても分かりゃせんですか。

若松の鶴丸汽船の船じゃから。で、なんとかザンマルというのが台風かなんかで遭難したはずですね。

(林田):(海図を示しながら)なんとかザンマルがここにあたるわけですか、大体この辺りに。

神野:その辺だろうと思うんですよねえ。その位置は約1,000mほど北の方に。いやあ、その近所だからもう分かるですよ。その時たまたま近くにドラム缶を浮かせとったわけじゃからね。ほかのは分からんけど、これなら分かっとると言って中村さんが連れて行ったわけだから。

(塩屋):中村さんは玄界島の中村さんですか。

神野:そうです、その時にはね、漁業組合の理事しとったから。それで、志賀島の誰もみんな、大体知っとると思うんですよね。その中村さんが、その沈船はわからんけど、今の沈船(○△山丸)なら判ると言うことで、そこに行ってブイ付けとったからね、私が。それで船は残っとったはず。その船のブイがですね、「見えとる、見えとる」と言いよったからですね。そう遠くではないはずですよ。

私の記憶では、すぐ分かるというふうに思ったんですけどね。

(塩屋):社長さんが船にお乗りになったら、この辺って分かりますか。

神野:それは、覚えんねえ。私もたまたま行っただけのことやからね。しかしその場所はすぐ分かると思うですがね。奈多の漁港とこれ(○△山丸)とのちょうど中間ぐらい。その近所を2隻の船でロープをつけて300m、400mずうっと引っ張るわけですよ。そうして引っ掛けて船を探しよったですもんね。それで、この沈船は、ここら辺の人なら大体知っとると思いますよ、年行った人なら。

(塩屋):まず、鶴丸汽船に尋ねたら…。

神野:ああ、そりゃあ、もう、-番早い。若松の鶴丸汽船にね。

(林田):この沈没船(木造船)は、まだここに残っているんですか。

神野:ありますね。まだブイがつけれるくらいの船体が残っとるから。

(林田):船体は大体どのくらいの長さでしょう?

神野:あんまり大きな船でない、4、50トンまででしょうね。それで船の形はずうっと点々とかなり分かるくらいにね。

(林田):大体全体の輪郭が分かるくらいに?

神野:ああ、マツラがこうね。ずうっと、砂をはねてみたら輪郭が分かるくらいじゃからですね。

(林田):もう、この辺は、完全なる砂地で、きれいな?

神野:砂地です。それでね、水嚢とかね、酒をつける道具みたいな物があったような気がしますね、確か。

(ここで神野社長が北九州市若松区の鶴丸海運に電話して、昔志賀島沖で遭難した船について問い合わせをしたところ、今すぐには判らないので後日連絡するという内容であったが、詳細については省略する。)

(塩屋):先日の電話で1,000mぐらいということをおっしゃってましたけど。

神野:ドラム缶が見えるくらいだからね、1,000mぐらいかね。1,400か、2,000mかよく覚えんですけど、ドラム缶が見えたということで。

(林田):大体その船の北側ですか?

神野:はい。そうです。それで、この船(○△山丸)は目的じゃないわけです。ほかに沈んだ船がおったわけですよ。それを探しよって、たまたま木造船に引っ掛かったとですよ。

(中村):それは、どういう関係で探されてたんですか。

神野:それがね、戦後、鉄板を積んだ船があそこで遭難したわけですよ。それで、この船と栗ノ上の瀬にぶつけて沈んだ船とがちょうど保険会社に古い在庫としてあって、それらの払い下げがあるわけですよ、いつも救助に行ったり何なりしていたから。その当時は、そのような仕事にサルベージをしていた頃だからね。それで、探しに行ったけど、まあ、分からんかった。

(塩屋):どうやって調べるかなあ。

神野:漁業協同組合で聞きけば大体分かると思いますよ。中村さんが知っていた訳だから、ほかの人も皆知っとるんじゃないですか。なおさら志賀島の人ならね。位置が分からんでも沈んだ船の名前は分かると思いますよ。鶴丸さんところの所有権までその時はっきりしとったからね。

(林田):その両面からですね。まず玄界島の中村さんに聞く、それから津屋崎あたりの漁師さんに聞く。

神野:だからもう一回調べてみてね。私も暇になったら、もう一回聞きに行ってみますけどね。

(塩屋):どうしますか、調査しますか?

(中村):ここではまだ結論は…。

(林田):私としては、鶴丸汽船の船が大体どのあたりに沈んでいるかということで、そのあたりから当たりを付けていこうかなと思ってるんですよ。

神野:私も言い出した以上、自分ももう一度回探してみたいなあという気持ちはあるですけどね。これまではあんまり興味なかったものですが。

(林田):今度、朝日新聞と九州・沖縄水中考古学協会、福岡市教育委員会との三者で、今おっしゃったところの船を確認しようと思っています。

神野:うん、してみりゃいいですな。(木造船には)皿か茶碗か、そんなのが一杯あったですよ。色はね、空色をしてね、こう色々あったですよ。

(塩屋):もう、これ以上積まれないという状態ですね?

神野:そうです、こう盛り上がとったですもん、一か所は。水嚢とかその石が二つ前の方にきちっと

あったですもんね、船の舶先のところにね、二つ並んで。それだから錨だろうと思ったですよね。両側というか、あまり距離はない、このくらいかね、きちんと並んで。それで、自綱が残っていたから、それはもう間違いなかったですね。自綱で何かをくくっていたことは間違いないです。そりゃあもう確認しとるから。あれは腐って取れるようなものじゃないですよ。

(塩屋):よし、本腰入れてやるか。

神野:やられるんなら、そりゃあもう完全にあることは間違いない。さっき言ったその沈船が一番見やすいから、それを調べたらいい。

(中村):水深は、2、30mぐらい?

神野:水深は、24、5mではなかったような、それよりちょっと深かったような感じがしたけど、そのくらいかもしれないですね。

(中村):下は全部砂地ですか?

神野:はい、砂は小さいビスのね。それで、それが埋まったりするような所ではなかったですね。自然に3cmか5cmはこうこうするような程度(手でうねる仕草で)で、大きな変化はないでしょう。

そりゃもう、専門的に見て分かるような感じだから、間違いないでしょうね。何cmかの程度で、こう掘ってみたら、やっぱりその周りもきちっと船の形が残っていたからね。良い物か悪い物か、私は責任持てんけど、陶器には間違いなか。それと、船は釘を打ったような船ではなかったということだけは自分が確認したですね。

(塩屋):マツラは、どのくらい確認されましたか?

神野:よく覚えんけど、ずうっと掘ってみたら、ぐるうっとあったからですね。間は広かったけど、7、80cmセンチくらいだったかも知らんですね。

(林田):硯の色はどんな色ですか、黒色ですか?

神野:いや、黒色というより、ちょっとシヤラがかったみたいなような。

(林田):小豆色みたいな?

神野:いや、小豆色ではなかったような感じがするね。

(林田):空色ですか?

神野:空色がかったような、黒みじゃったような気がするけどね。簡単なものでなかったよ。だいぶん、こう模様が彫ってね、きれいに。それで蓋が付いとったんよ。

(林田):で、硯に足がありましたか?亀の足みたいな。

神野:そんな感じじゃった、亀がつぶされたような形でね。

(塩屋):石原君に言えば色々な硯が集成できる。絵や写真を見てもらったら、大体こんなものであるというのは分かられると思います。

(途中省略)

(塩屋):ぜひ、調査に協力を。これが確認できれば日本の歴史にとっても大事なものですから。

神野:はい、わかりました。今日はもうこれで終わりにして。

2.第2回聞き取り調査

1)聞き取り調査に至る経過

第1回の聞き取り調査で明らかになったのは、神野社長が目撃された木造沈船は積荷と思われる焼物や2個の碇石などから中世交易船である可能性が極めて高くなったこと、その船を見つける目印が旧鶴丸商店所有の石炭運搬船で山の名のつく船であるということであった。その後の調査の結果、現在の鶴丸海運には当時の資料は残されておらず、山の船名をもつ船の手懸かりは得られなかったのであるが、福岡市民図書館(現福岡市総合図書館)に所蔵されている戦前の新聞マイクロフィルムで関連記事を発見し、その船が昭和11年に遭難沈没した彦山丸であることを確認したのである。

こうして1994年9月に志賀島・玄界島沖中世交易船の探査事業を初めて実施し、96年、97年と継続した。1997年の探査で当該海域に2隻の鋼鉄製沈船を発見してビデオカメラで撮影した。しかしながらどちらが彦山丸かどうか確認できなかったため、再び神野社長への聞き取り調査を行うこととなった。以下その内容を録音テープをもとに掲載するが、第1回との重複部分や不必要な個所は省略した。

2)聞き取り調査の内容

場 所:KBC九州朝日放送会館

日 時:1997年9月7日

調査者:林田、石原、御田幸司KBC九州朝日放送記者

(林田):彦山丸のところに潜られた時には、サルベージが少し終わっていた段階ですか。

神野:そうそう。

(林田):もう、船体もほとんど無いという感じで。

神野:無い、だから一応、スクリューぐらいは付いとりゃせんかという程度でね。

(林田):今回、KBCと探査しまして、彦山丸と思われるものの近くにもう1隻鋼鉄船が見つかり

ましてね、それにはスクリューが付いていると。

神野:それはねえ、違うみたい、全然。

(林田):もうひとつですね、北側の350m程離れた所にもう1隻の残骸しか残っていないのがあって、そこに行きますとある程度石炭があったり。

神野:それでないさね。テレビで映して見てみたら分かるわね。

(林田):わかりますか?、それをビデオで撮ってますのでちょっと見てみたいと。

(石原):今、林田会長が言った船は近くにかなり岩礁部があるんですよ。そのようなことはどうでょうか。神野さんが潜られた時に根が近くにあったというような記憶はございませんか?

神野:いや、そんなんは無いね。

(石原):ああ、じゃあもう、完全なフラットな状態で。

神野:はい。

(石原):今回見つけた船は玄界島の漁師さんたちがこれが彦山丸ですよというポイントなんです。

ただし、彦山丸を示す具体的なものは何もありません、石炭があったり、昭和初期ぐらいに使われてた陶磁器が何点かあるぐらいなんですよ。彦山丸と特定するものは無いんですけども、周囲の状況はすぐ近くに根があるんですよ。そういうことで、もしフラットな部分で見られたんであれば、今回はちよっと違うかなあという気が今ちよっとしたんですけどね。

神野:磯の根はあるところではない、全然、そんなのは。そして、そこにはね、廃鉄(サルベージ業者)が一回入っとるんですよ。一応、上の部分を。

林田:そうですね。これが今回の探査した時の記録なのですが、この箱型遺物というのは、この海図に沈船のマークが記されていますけども、ここにこれは載っているんですね。その北に彦山丸らしい新しいものを見つけてるわけで、これは、スクリューとか、長さも40mそこそこなんです。で、わりと残りがいい。これが、今、神野社長がおっしゃったようをほとんど残っていない状態である船がひとつここに。

神野:それは、水深なんぼぐらいかね。

(林田):30mぐらいあります。

神野:ああ、そのくらいまでだったら、可能性あるね。

(林田):それから100mも行かないうちに、やっぱり、根がこう張り出してきてるんですね、こうゆうふうに。根といいますか、岩礁といいますか。

神野:ここは、もう全部大体そんなんですよ。それで砂が波打ってね。

(石原):我々も彦山丸だけが沈んでると思ってたんですけども、かなりいろいろな船が沈んでるんですね...。

神野:いっぱいですよ。それで、この彦山丸は鉄になるのは無かったんでね。それと、3番からようけ離れてないけどね。それで船は外に出ているところは虫が食うてしもうて腐れて。それで砂をよけてみたら、中がカステラみたいになっとる、マツラというか、肋骨が。だけど、碇は完全に残っとったもんね。

(石原):いわゆる石ですか。

神野:はい。二つ並んじょったね。

(石原):碇らしきものは細長い、宮崎宮あたりにある、あれですか。

神野:はい、あれです。1m以上あったんじゃないですかね。もう少し大きいかもしらんね。

(石原):確かにここら辺は音波の探査機で見ると細かいものまで全部映るんですよね。だから例えば1mぐらいの碇石で、それが2個ぐらいあれば反応は多分出てると思うんですよね。

神野:それとね、陶器類がね、かなり散乱して。

(石原):その沈船の船体の中央部に高みがあって、集中しているような感じなんでしょうか?

神野:まあ、三輪車に一杯ぐらいはあるんじゃないんかという程度のね。それで水嚢の大きなやつがあったですよ、風呂釜ぐらいよりまだ大きいような。まあ、それを探せばあることは間違いない。人

がそんなものは盗っては逃げんわねえ。

(林田):社長がおっしゃってましたように彦山丸を見つければある程度その辺の近くにあるということで今年も探査したわけですが、日数も少なかったので成果は上がりませんでした。

神野:だから私もねえ、言い出して無かったとなったらいかんと言いよったら、うちの専務がそんならわしが大将になって探していいかと言うから、ええぞということで、博多の許可を取って回っとるとですよね。2船団出して、ずうっとテレビで見ながら。そやけど、悲しいかな、全然位置がちごうとるわけよね。それで、どうしますかと。どうしますかといっても、むこう(九州・沖縄水中考古学協会)が探しよるところ(協会が探査をしている海域)まで邪魔しにいくなちゅうて、それでもう止めたわけですよ。

一同:(笑い)

(石原):話は戻りますけど、この彦山丸からブイを上げられて他の船を探された時に、どれくらい走られたんですか。

神野:どのくらいというても、どのくらいも走れるような、その当時の船ではないわけ。そこまでに行くゆうたら、1時間以上、玄界島からでもかかりよったくらいじゃからね。

(林田):そうすると彦山丸から大体、どんな感じでしよう。やはり1,000mぐらい離れてますか。

神野:それねえ、記憶自体がそんなもんじゃけど。

(林田):今回、この21(1997年度探査で確認した異常反応地点、物21)の所から2、300mは走ったんですよね。

(石原):海の上というは近くに見えてかなり遠いですよね。この距離も350mしか離れていないんですよ。その時、そのドラム缶のブイは見えたわけですか。

神野:見えた。わしゃ、500mか1,000mぐらいかなと思うたぐらいでね。肉眼じゃからね。そやけど、こういったらもう、なかなか難しい。海、広いもんね。

林田:最初にその情報いただいた時に、こりゃ面白いと思って、始めたんですけどね。

神野:うん、その気持にゃあなるわよね、私もね。まあ、春ん時にもう一回、こうじっくり見てみなさい。まあ、彦山丸を探しといて、それから、ずうっと距離を延ばせばね。大体、その近所にあることは間違いない。だけど、あれだけ探すゆうたら、そりゃ、とてもじゃないけれどね、問題がある。

(以下、聞き取り調査は彦山丸の位置や硯について続くが、第1回聞き取り調査の内容と殆ど重複するので省略する)

おわりに

以上、2回にわたって神野社長への聞き取り調査を行ったのであるが、その内容は次のように要約できよう。まず、神野社長が昭和30年頃に潜水して目撃した木造沈船は、積荷と思われる焼物や硯、碇と思われる2個の石などから中世交易船と考えられることである。特に風呂釜のように大型の甕は博多遺跡群から出土しており、私たちの推測を傍証する。次にこの木造沈船の位置については、昭和11年に沈没した石炭運搬船彦山丸の周辺であるということである。ビデオ映像を見られた神野社長は、付近に石炭が散乱しスクリューが付いていない船の残骸を彦山丸と断定されたが、木造沈船の位置については記憶が曖昧で、当初は彦山丸の北方海域約1,000m程度と言われていたが距離と方位も不確かなものとなった。したがって、私たちの今後の探査は、彦山丸を中心として周辺海域を緻密に行う必要があるということである。

(塩屋勝利)