平成3年度までの調査 - 石原 渉

1.鷹島海底遺跡の概要

鷹島南岸における遺物の分布

九州の西北端、壱岐水道に面した伊万里湾口に浮かぶ鷹島は、長崎県北松浦郡鷹島町に属し、東は日比水道を隔てて佐賀県東松浦郡肥前町に、東南は長崎県福島町、南は松浦市に接し、西方に平戸島、北に壱岐島を遠望することができる。この鷹島は、中世の日本を震撼させた蒙古襲来の歴史上の舞台として知られ、文永11年(1274)の「文永の役」では、鷹島と周辺が主戦場となり、また弘安4年(1281)の「弘安の役」では、鷹島沖に集結した第二次日本征討軍の東路軍および江南軍あわせて約4,400隻の大艦隊が、大暴風雨により一夜にして壊滅的打撃を被った、元寇終焉の地として世に名高い。

この史実を裏付けるように、島内には元寇の激戦にまつわる塚や五輪塔・供養塔が数多く存在し、原免には江戸時代に海底から引き揚げられたという伝承をもつ銅造の如来座像(高麗仏)を祀る小堂がある。また同海域からは、壷や碇石などが地元漁師によって多数引き揚げられており、とくに印面に元のパスパ文字で「管軍総把印」と刻まれ、側面に「至元十四年(1277)九月造」と製作年代が刻まれた銅印は、弘安の役で壊滅した蒙古軍の遺品として世に広く知られている。これらの遺物は、現在、鷹島町立歴史民俗資料館に保存され、一般に公開されている。

こうした元寇関係の遺物を包蔵する海底遺跡は、昭和56年7月20日に提出された遺跡発見届により、鷹島南岸の東端「鵜ノ鼻」から西端「雷岬」までの7.5km、打線より沖合200mの範囲について、周知の埋蔵文化財包蔵地として登録され、現在に至っている。

2.鷹島海底遺跡の考古学的調査

鷹島海底遺跡出土の遺物

鷹島海底遺跡に関するこれまでの考古学的調査は、昭和55年から3ケ年にわたって行われた文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」のうちの「水中考古学に関する基礎的研究」を嚆矢とする。

また昭和58年には、同島床浪地区で港湾事業が計画されたため、その事前調査として海底遺跡の発掘調査が実施された。同海域では、昭和63年にも同種の港湾事業が計画されたため、平成元年に記録保存のための本格調査が実施されている。また平成元年度から3年度にかけて、本事業と並行して、文部省科学研究補助金総合研究Aによる「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する基礎的研究」が3ケ年継続して行われた。

これらの調査のうち、昭和55年から3ケ年継続で行われた文部省科学研究費による「水中遺構・遺物の探査並びに保存に関する研究」が最も大規模な学際的調査であり、初めて本海底遺跡に学術的な調査のメスが加えられ記念碑的な調査であった。ここでは、その成果を少し詳しく紹介することにしよう。

3.昭和55~57年の文部省科学研究費による調査

(1)調査の経緯

昭和55年度から3ケ年計画で実施されたこの研究は、文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」のうち、水中文化財の科学的研究と保存を目的とするもので、水中遺跡に関する初の本格的な調査であった。水底下における古文化財の発見と考古学的調査法の開発研究を目的としたため、研究スタッフも、歴史学・考古学・郷土史などの人文科学系の研究者のほか、船舶工学・水中音響工学・潜水技術等の工学系研究者を交えた学際的なものとなった。調査体制は、茂在京男(東海大学教授)を調査団長に、研究分担者10名、研究協力者14名、潜水協力者6名、それに多数の現地協力者からなり、元寇という歴史的事件を水中考古学の立場から解明し、あわせて水中考古学の調査研究方法を確立することを主眼に、長崎県北松浦郡鷹島町周辺海域を調査対象地に選んで実施された。

(2)昭和55・56年度の調査

調査初年度の昭和55年度は、同島周辺海域において、音響測深機のソノストレーターおよびサイドスキャンソナーを使用して海底下の状況を調査した。その結果、異常反響が72地点であり、海底下の地層中に遺物が埋没している可能性が認められた。

昭和56年度の調査は、7月6日から20日までの15日間の日程で、元軍の軍船が沈没したとされる同島の南西部沿岸を中心に、潜水班および機械班の2班に分れて実施された。潜水班には東海大学潜水技術センターから技術員の参加があり、潜水による遺物の確認と写真撮影、およびその引き揚げ作業を担当した。機械班は、今回の調査のために光電製作所が開発したカラーソナー(海底下の状況をカラーディスプレーする)を駆使し、反応のあったポイントにブイを投下して、位置確認の作業を分担した。

また海底下の発掘方法を研究するため、エアーリフト(空気吸い上げ機)の試作を行い、海底の砂泥地帯において実験的な発掘作業を行った。このエアーリフトは、鉄パイプの先にコンプレッサーから圧縮空気を送り込み、海底で泡がパイプの開口部に向かって上昇する際に起きる吸引力を利用したもので、直径9cm、長さ110cmの亜鉛引き鉄管を筒先とし、長さ30mのホースを接続したものである。

潜水班は2人を1組とし、合計6人で同島南西沿岸の床浪から俵石鼻を中心に調査を実施した。沿岸から沖合に約50m内外(平均水深10m)の浅瀬および岩礁部を調査して、遺物の確認と写真撮影を行い、浅瀬の海底に露出する褐釉壷などをサンプルとして引き揚げた。同海域には遺物がとくに集中しており、海底では約2m間隔で壷の破片が確認できる状況であった。引き揚げられた遺物は、褐釉壷の破片143点(完形品3点)のほか、投石弾や片口などの石製品4点、鉾先やインゴットなどの鉄製品8点、磚9点、青磁碗・小鉢3点など、総計171点を数える。

また潜水班は、エアーリフトの実験を行うため、7月17日と18日の両日、同島神崎港沖合120mのST2(水深20m)と同沖合220mのSTll(水深25m)のポイントで作業を実施した。これらは以前、ソノストレーターで海底下1.5mに明瞭な反応のあった地点である。同調査を指揮した工藤盛得(東海大学教授)によれば、海底は極めて軟弱な泥層であり、海底での透視度も2m程度と悪く、エアーリフトによる浚泥は25分間で直径約1m、深さ30cm程度しか進捗せず、作業は困難を極めたという。両日で合計12回の試掘を実施した結果、ST2で1.2m、STllで1.8mまで掘り下げることに成功し、STllでは海底下1.6mで貝殻混じりの固い地層に到達、1.8mで約30cmの厚さの固い地盤を確認し、その下は再び軟弱な地層となることを確認している。

(3)昭和57年度の調査

57年度の調査は、前年度の継続調査として実施され、探査機器の改良実験と並行して、水中に散布する遺物の確認と、位置の測定ならびに引き揚げが行われた。とくに鷹島町神崎免海岸部においては、海岸線にセオドライトを設置し、海岸部から沖合100mの範囲にロープを張り、各ロープは20m、10m、5m、1mと、それぞれ間隔を狭め、測定密度についても検討を加えた。

神崎沖で引き揚げられた遺物は、褐釉壷の破片など173点である。褐釉壷はいずれも破片で、ほかに磚57点、碇石10点、石弾2点、青磁碗・石製片口・石臼各1点がある。

(4)調査の成果と課題

調査の目的は、水中考古学における調査法の研究開発に主眼をおき、海底下の遺物の発掘と実測、記録作業を行う予定であったが、準備不足と人員の関係から、当初の目的を十分に果たすことができなかった。とくに海底に露出した遺物の引き揚げについては、遺物の出土位置に関する記録が不十分に終わったため、将来の調査に課題を残す結果となった。

潜水調査は、元軍が暴風雨に遭遇したと思われる鷹島の南側の海域、すなわち俵石鼻から床浪にかけての沿岸海域を重点的に調査し、水深10m内外の岩礁および浅瀬に褐釉壷の破片が散乱する状況を確認しているが、当該区域はいずれも海岸部分から岩礁性の岩場が海底面に張り出しており、その岩場の隙間に集積した遺物が調査員に発見され易かったという事情があろう。また、昭和55年度の探査で遺物の可能性のある反応が顕著であった地区であるため、潜水調査が集中的に実施されたことも、かかる結果を生んだ原因のひとつと考えられる。しかし、そうした状況を配慮しても、床浪地区が天然の良港であること、また小河川ながら床浪川の河口部が存在する点を考慮すると、飲料水確保を目的に当該地区に元軍の艦船が集中していて、荒天に際して浅海部の岩礁が仇となって、悲劇的な難破と沈没ひいては積載物の散乱という事態をもたらした可能性が想定できる。この点は、当該地区で碇石の発見が顕著であったという事実からも類推されるところであるが、こうした問題の解決のためには、今後、鷹島南岸海底の徹底した分布調査や確認調査の実施が必要であり、その結果をもとに判断すべきであろう。

またこの調査で、機械班が実施したカラーソナーとソノストレイターの実験は、海底下の遺物発見に有効であることがわかったが、航行する船舶に搭載した計器類が遺物確認のエコーをキャッチしても、同海底にブイを打ち込む際に、船舶のスピード等の関係から、確認地点がそれて、だいぶ離れた海底に着底するという問題があり、その誤差をいかに縮めるかが大きな課題となっている。またカラーソナー自体も、船底から海底に発射する音波のビーム幅が広いため、精度の点ではかなり改良の余地がありそうである。

以上の反省点から考えて、今後の調査では、1.水中での測量および遺物の正確な位置確認と記録、2.機械班と潜水班の共同作業における連絡手段の確立整備、3.新たに陸上に測量班を編成して、陸上から調査船ないしは遺物の存在を示すブイの位置確認作業を行うこと、4.保存処理用溶液ないしは処理施設の充実、などの改善策を講じる必要があろう。また潜水調査を行うダイバーに、考古学的な知識や技術を熟知した者を参画させる必要性が痛感される。

以上、多くの推測を混じえての総括となったが、鷹島海底遺跡の発掘調査が、元寇という歴史的事件の実態解明のために、より豊富な歴史資料を提供するのは確実であり、引き続き、水中遺跡の調査方法の確立と、本海底遺跡の計画的・組織的な調査の実現に向けて、多くの課題を克服する努力が必要となろう。